西岡是心流のはなし(5)流派の終焉 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

大野・吉田両家によって受け継がれ、京都の役人たちの間に浸透していたはずの西岡是心流剣術は、明治維新を機にパッタリと消滅してしまいます。

 

 

西岡是心流がなぜ伝承されなかったのか、途切れてしまったのか、はっきりしたことはわからないのですが、大きな要因として二条城稽古場(文久二年)や京都文武場(慶応二年)の創設により、門弟だった役人子弟たちがそちらに流れていってしまった可能性が挙げられると思います。

 

 

さらに初代京都府知事・長谷信篤と二代目府知事・槇村正直は、剣術をはじめとする日本古武道を不平士族と結びつけて危険視し、武道を学ぶことを禁止したことがその衰退に追い打ちをかけることになったのではないでしょうか。

 

 

ちなみに維新直後、京都府は古武術を禁じる一方で在京旧幕府役人たちへの懐柔策として新たな市中警固隊の編成を企図し、その編成を大野応之助と石崎八郎(元所司代与力。日置龍竹林派弓術)に命じています。

 

 

『京都府達』明治元年七月

 

両刀を帯し、食禄を受け候者はみな兵なり。しかればその実を尽くさんずば有るべからず。いわんや勤王の志願ある者をや然りといえども、その実を尽くすに急務あり。

(中略)

今度、京都府兵隊御組み立てに相成り候間、諸組一同、年齢身体壮健の者は前件の御趣意を体し、銘々自己の我意を申し立て、入隊を辞し候などこれ無く、精々勉励致し候様仰せ付けられ候事。

 

但し、兵隊御組み立て御用掛、石崎八郎、大野応之助へ仰せ付けたて候間、左様相心得申すべき事。

 

 

この部隊ははじめ洛陽隊と名づけられましたが同年八月には平安隊と改称されます。平安隊は新政府ではなく京都府の府兵とされ、警察組織の前身的役割りをも担うこととなりました。平安隊は翌明治二年(1869)には警固方と改称されますが、隊規が整っていなかったこともあり、当初は京都市民の評判は頗る悪かったようです。

 

 

ちなみに、平安隊の幹部職である教頭には西岡是心流・有心館四天王の一人・安藤伍一郎が就き、同じく助教には応之助の一族と思われる大野機次郎なる人物が就任しています。

 

 

また、明治二年十二月には静岡から渡辺鱗三郎(篤)が帰って来て警固方の伍長に就任しています。明治十四年(1881)に第三代府知事に北垣国道が就任すると、北垣は前任の槇野と打って変わって武道を奨励、その精錬の場として京都体育場を設立するのですが、翌明治十五年(1882)に渡辺は体育場剣術教授方を命じられています。

 

 

さらに北垣は元講武所教授方であった小野派一刀流の宗家・小野業雄を京都に招聘しますが、これを機に渡辺篤は小野を生涯の師と定め、西岡是心流を捨てて小野派一刀流へと鞍替えしています。あるいはこの渡辺の決断が西岡是心流の流派継承にとどめを差したのかも知れません。

 

 

結局、京都においては西岡是心流の系統は絶えてしまいます。ただし『日本武術名家伝』(飯島唯一/明治三十五年)によれば、奈良の剣客で大野応之助の門弟であった高山義輝が奈良県高市郡に道場を開き、数百人の門弟を数えるほど繁盛したとされています。近江屋事件で坂本龍馬・中岡慎太郎を斬ったとされる西岡是心流の剣流は、あるいは同地に今でも伝承されているのかも知れません。

 

 

【西岡是心流の剣客たち】

西岡是心 (線導流。五百里半兵衛・尾張藩陪臣・大和郡山?)

大野伝四郎 (尾張藩士)

大野応之助 (京都所司代与力)

大野市右衛門 (〃)

吉田嘉平太 (〃)

吉田三九郎 (〃)

安藤伍一郎 (〃)

富田純蔵 (〃)

渡辺篤 (京都見廻組)

桂早之助 (〃)

世良吉五郎 (〃)

人見勝太郎 (幕府遊撃隊・箱館政府軍)

伊藤龍太郎 (生野の変戦死)

赤松重威 (桑名藩士。禁門の変戦死)

金輪五郎 (赤報隊・大村益次郎暗殺)

高橋義輝 (大和郡山・津藩士)

 

 

 

※.晩年の渡辺篤(鱗三郎・一郎)