西岡是心流のはなし(3)大野応之助と勤王の志士 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

大野応之助は所司代の与力でしたが、戊午の密勅事件など幕府の政策に反対する一連の動きの首謀者と目され、安政の大獄で逮捕された梅田雲浜と親交があったことが知られています。

 

 

雲浜は京都の自宅に姪の登美(のち山田登美子)を住まわせていましたが、その登美が後年書き綴った「山田登美子一夕話並遺詠」(『梅田雲浜遺稿並伝』収録)に大野応之助の話しが出て来ます。

 

 

十七の歳(安政五年戊午)春の頃、所司代附の与力に大野応之助という人の訪い来ることありき。われ茶など持ち出でてすすめしに、こは先生の御姪子にておわしますかと問いたりしに、叔父君答えて、未だいと世慣れぬものにはべり、さる方へ躾見習いに参らせんと思いつつ、今日までかくて打ち過ぎぬるを、いかで御計らいにて善きにものし給いぬと仰せられぬ。後程もなく、この人より迎えにおこせたれば、やがてわたりぬ。

 

 

つまり、安政五年(1858)の春頃、梅田雲浜のもとを大野応之助が訪ねて来て、登美が茶を出すと、大野は「この方は先生の姪御さんですか」と雲浜に尋ねました。雲浜は「まだ世間知らずな娘なので、誰かのところへ、しつけ見習いに行かせようと思っていながら今日まで来てしまいました。どうしたら良いだろうか」と大野に愚痴をこぼしたところ、程なくして大野の家から迎えが来て、登美は大野の家に世話になることになったというのです。

 

 

登美によれば、雲浜はいずれ登美を自分の養女にするつもりだったといいます。そんな娘を預かろうというのだから、大野応之助と雲浜の親密さがうかがえます。ところがそれから半年後に安政の大獄が起こり、雲浜は逮捕されてしまいます。応之助は登美(と自分)に累が及ぶのを避けようと、登美の身柄を応之助と同じ所司代与力で一族の大野市右衛門の元に預けます。そんな様子をみた雲浜の弟子の一人・松井周蔵が「役人の家にいては危ない」と登美を自分の家に引き取りますが、身元を隠すため下女として働かされ、しかも松井周蔵の妻は元梅田家の下女だったために、非常に屈辱的な思いをしたと登美は述懐しています。

 

 

その後の登美の放浪劇については話が反れてしまうのでここでは省きますが、長州奇兵隊の赤禰武人や、池田屋事件で新選組に討たれた大高又治郎などが登美を助けることになります。それは所司代の与力である大野応之助と、のちに勤王の志士と呼ばれることになる彼らとの距離が意外と近いものだったことを示していると言えるでしょう。

 

 

※.梅田雲浜