西岡是心流のはなし(1)西岡是心と大野伝四郎 | またしちのブログ

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渡辺篤、桂早之助と西岡是心流の剣客二人を紹介したところで、剣術流派・西岡是心流について少しお話したいと思います。

 

 

西岡是心流は大和郡山藩の西岡是心を開祖とした流派として知られています。おそらくその出典は古武術研究の第一人者であった綿谷雪(わたたに きよし。1903-1983)の書によるものと思われ、たとえば『武芸流派辞典』(綿谷雪・山田忠史共著/昭和38年)

 

 

是心流(剣)

郡山藩の西岡是心。吉田武八郎の是心流も同系か。尾州藩の是心流は一に円導流ともいう。

 

西岡是心流(剣)

大和郡山藩。西岡是心。

 

 

と紹介されています。そして、たとえば『龍馬暗殺の謎:諸説を徹底検証』(木村幸比古)では

 

 

早之助に伝授された伝書には「兵法」の文字が用いられているが、流派はそれほど古いものではなく、大和郡山藩の西岡是心が流祖である。是心ははじめ「いかり半兵衛」と名乗っていた。吉田武八郎が伝えた是心流も同じ流れといわれている。尾州藩に伝わる是心流も西岡の門人である大野伝四郎の流れであり、円導流とも称した。

 

 

と書かれており、西岡是心流免許皆伝の金輪五郎(赤報隊。大村益次郎襲撃者の一人)の伝記『草碣(くさのいしぶみ)』(吉田昭治)でも

 

 

西岡是心流は大和郡山の人・西岡是心を開祖とし、以来、流系を嗣いで師家をつとめる者、大野伝四郎、大野弥三郎、吉田嘉平太、それに大野応之助の四代をかぞえる。

 

 

と書かれていて、西岡是心は大和郡山の人ということになっています。が、どうやらこれは違うらしい。というのも、江戸時代中期の尾張藩の兵学者で武芸者の近松茂矩(ちかまつ しげのり。元禄十年/1697-安永七年/1778)の残した随筆『昔咄』(元文三年/1738)に西岡是心とその後継者大野伝四郎に関する以下の記述があるのです。

 

 

 

御家中武芸役へも段々御尋ねの義これ有り。また書物等も指し上げぬ。この御用は庵原平左衛門、今泉佐左衛門、足立玄長、大野芳庵、大野伝四郎等承りぬ。

 

(中略)

 

大野伝四郎は芳庵兄弟なり。神影流直槍を久野勘右衛門が弟子木幡忠兵衛に習うて免許をとり、また線導流の剣術を西岡是心に学びて許可を得ぬ。そのほか多芸なりし。

 

西岡ははじめは、いかり半兵衛という。のち是心というゆえ、推して是心流という。讃岐守様に仕えぬ。

 

 

 

これにより、まず大野伝四郎が尾張藩士であり、武芸者であり、また芳庵という兄弟がいたことがわかります。そして西岡是心は元の名を「いかり半兵衛」といい、元の流派名は「線導流」と呼んでいたことがわかります。ちなみに「いかり」はおそらく「五十里」と書いたのではないか、と近松は補足しています。

 

 

大野芳庵は近松と同じく尾張藩の兵学者でしたが、生没年は不明なものの近松の一世代ほど前の人のようです。直接の面識はおそらくなかったでしょうが、芳庵や伝四郎に関して、近松茂矩はそれなりに詳しい情報を知り得る立場であったと思われ、この記述にはかなりの信憑性があると考えて良いものと思われます。

 

 

また、西岡是心は「讃岐守様」に仕えていたことがわかりますが、では讃岐守様とは誰なのか。一般論でいえば江戸時代「讃岐守」を名乗ったのは讃岐高松藩の藩主ということになります。が、この書き方を見るかぎり、どうやらそうではなさそうです。高松藩の藩士であったら「讃州家の士」などと書くのではないだろうかと思い調べてみたところ、ここでいう「讃岐守様」はどうも尾張藩の家老をつとめた石川(いしこ)讃岐守章長のことのようです。つまり西岡是心は大和郡山藩の藩士ではなく、尾張藩家老石川(のち石河と改める)家の家臣だったということになります。

 

 

そして、その流派・線導流あらため是心流のその後については以下のように書かれています。

 

 

嫡子彦兵衛は若死し、高弟服部新五兵衛という者、江戸にいて鳴りしが、死せしゆえ、正伝は伝四郎一人なりしが、これも今は果てぬ。ゆえに線導流断絶せり。惜しい哉伝四郎が伝も御内々にて御習いありし。

 

 

つまり、西岡是心の嫡子彦兵衛は若くして死んでしまい、また江戸で鳴らした高弟の服部新五兵衛も死んでしまったため、正伝を継承する者は大野伝四郎だけとなってしまった。が、その伝四郎も今は亡くなり、線導流は断絶してしまった。惜しいことに伝四郎も「御内々」にしか教えなかった、というのです。「御内々」はおそらく大野家の者にしか伝承しなかったという意味なのでしょう。そう考えると意味が通じます。

 

 

では尾張藩士だった大野伝四郎の子孫がなぜ京都所司代の与力となったのでしょうか。ひょっとしたら、その原因、いや遠因だったかも知れない出来事が朝日文左衛門の『鸚鵡籠中記』に書き残されています。

 

 

 

宝永三年(1706)十二月六日

大野伝四郎、御役御免為御馬廻。向御やしき火事の刻、他出不首尾。

 

 

「向御やしき」が火事になった際に外出していて駆けつけなかったため、お役御免になってしまったというのです。「向御やしき」が具体的にどの屋敷を指すのかはわかりませんが、「御」がついていることから、藩主かその一門の屋敷であることは間違いないと思われます。

 

 

馬廻というのは殿様の周囲を守るボディガードのような役割りです。だからこそ「御やしき」の向かいに屋敷を与えられていたのでしょうが、にも関わらず、いざという時に駆けつけなかったわけですから、お役御免も致し方ないことだったかも知れません。こうした失態がやがて尾張藩から京都所司代へと ”異動” することになる遠因だった可能性はありそうです。そうして尾張で生まれた西岡是心流は大野家と共に京都へと移って行ったのでしょう。

 

 

では、なぜ綿谷雪は西岡是心を大和郡山藩の人だと考えたのでしょうか。ひとつ考えられるのが、実は西岡是心流の最後の継承者と言うべき高山義輝(大野応之助門人)が大和郡山の出身だということです(藤堂家に仕えていたため郡山藩士ではない)。綿谷雪は全国各地の古武術に関する膨大な量の情報を集めていました。戦前の口伝・手書きのメモによる情報収集作業を考えると、認識の混濁があった可能性は考えられると思います。

 

 

※.西岡是心流免許皆伝・渡辺篤(京都見廻組)。