近江屋事件始末(11)『近畿評論』騒動 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

時は流れて明治三十三年(1900)のこと。京都の小さな出版社が発行した雑誌に掲載されたある記事が元となって大きな騒動が起こりました。

 

 

騒動の元となったのは『近畿評論』第十七号に掲載された「坂本龍馬殺害人」で、元京都見廻組の今井信郎が、坂本龍馬を殺害したのは自分であると告白する内容の記事だったのですが、生前の龍馬と親しく、事件直後に近江屋に駆けつけて瀕死の重傷を負った中岡慎太郎や近江屋経営者の井口新助などから直接事件の経緯を聞いていた谷干城(子爵)が、この記事を猛烈に批判したのでした。

 

 

※.近畿評論社があった木屋町三条上ル大阪町(現在の中京区上大阪町)

 

 

実は近畿評論の記事は今井信郎が自ら寄稿したものではなく、維新後、同じクリスチャンとして今井と親交があった結城無二三(※)の息子礼一郎が、今井から聞き取った話をもとに脚色を加えて甲斐新聞に発表したもので、それをかつて同新聞の編集者であった京都出身の岩田鶴城という人物が自ら創刊した『近畿評論』にまるごと盗用して掲載したものでした。

 

 

その『近畿評論』の「坂本龍馬殺害人」なる記事をどうにかして全文読む方法はないかと探してみましたが、残念ながら国会図書館のデジタルコレクションにも『近畿評論』は収蔵されておらず、坂本龍馬を扱う書籍類にも全文が読めるものは見当たりません。

 

 

そんな中、同記事が発表された明治三十三年中に記録されたという『谷干城談話』というのがあります。これは京都招魂社遺族大会での講演の速記録らしいのですが、谷は問題の『近畿評論』第十七号を手に持ち、記事を読み上げながらそれに対する反論を展開しているようです。

 

 

そこで、その談話の中から記事を読み上げている、または参照していると思われる部分をピックアップしてみました。

 

 

私が(京都へ)参りました時、坂本は(松平)春嶽を説いて帰って来たところでした。彼は策士で海援隊を率い、中々切れ者です。こういうやつを生かしておいては御為にならぬと思いましたから、ひとつやっつけてしまおう。向こうも大勢だから、この方も同志を募ろうといって寄々相談などいたしました。

 

 

 

ふとしたことから蛸薬師にいる才谷というが坂本だということを確かめた。そこで十一月十五日の晩、今夜こそぜひと言うことに決して、桑名藩の渡辺吉太郎という者と、それから京都の与力に桂隼之助という者と他に一人、それから自分と都合四人でかけた。自分が一番年長者で二十六歳だった。

 

 

 

(残りの一人に関して雑誌記者に問われ)その者はまだ生きているが、「どうぞ私が生きている中は言うてくれるな」と言うておるから言うことが出来ない。

 

 

 

先斗町で酒を飲んで十時よほど過ぎに才谷の旅宿の河原町蛸薬師油屋へ参り、私共は信州松代藩のこれこれという者です。坂本さんに火急にお目にかかりたいと申しましたところ、取り次ぎの者が「はい」と言って立って行きましたから、こいつはしめた。いるに違いない。いさえすれば何様でも斬ってしまおうと。

 

 

 

松代ですか、あの真田の藩です。坂本とは前から通しておったのです。四人ともいいかげんの名をこしらえて言ったのですから、今でも覚えていません。とにかく「こちらへ」と言いますから、行ってみますと二階は八畳と六畳の二間になっていました。

 

 

 

六畳の方には書生は三人いて、八畳の方には坂本と中岡が机を中へはさんで座っておりました。中岡は当時改名して石川清之助といっておりましたけれども、私は初めてのことであり、どれが坂本だか少しも存じませず、他の三人ももちろん知りませんので、さっそく機転を利かして「やあ坂本さん、しばらく」と言いますと、入り口へ座っていた方の人が「どなたでしたねえ」と答えたのです。

 

 

 

そこで「それ!」と言いざま手早く抜いて斬りつけました。最初鬢を一つ叩いておいて、体をすくめる拍子に横に左の腹を斬って、それから踏み込んで右からまた一つ腹を斬りました。この二太刀でさすがの坂本もウンと言って倒れてしまいましたから、私はもう息ついたことだと思いましたが、あとで聞きますと明日の朝まで生きていたそうです。

 

 

 

それから中岡の方です。これは私共も中岡とは知らず、坂本さえ知らなかったのですから無理はありません。坂本を殺ってから手早く脳天を三つほど続けて叩きましたから、そのまま倒れてしまいました。お話すれば長いのですが、この間はほんとに電光石火で、一瞬間にやってしまったのです。

 

 

室へ入ります前に、私のすぐ後ろへ渡辺がついて参りましたが、それが腰の鞘を立てて梯子を上りましたので、六畳にいた書生が怪しいと見て、「それ」と声をかけましたから、少し手順が狂ったのです。それで四人とも坂本の部屋へ入り込むところでしたが、書生が声をかけたため、渡辺と桂は早速に抜いて六畳で書生と斬り合い、その間に私共は八畳の方へやっつけたのです。書生は渡辺と桂とに斬り立てられて、窓から屋根伝いに逃げてしまいました。

 

 

その夜は佐々木只三郎のところで泊まりまして、翌日市中の噂を聞くと、なかなか大変な騒ぎです。なんでも皆これは新選組のしわざだろう。たぶん紀州の三浦休太郎が新選組と合体してやったのだろうという風評です。それに渡辺が六畳へ鞘を置いて帰って来ましたが、その鞘がよく紀州の士の差した高鞘に似ておりましたから、いよいよこれは三浦のしわざに違いないという事でした。

 

 

これらのほとんどは既に知られた話ですが、その中であまり知られていない逸話であり、個人的に興味深いのが、渡辺吉太郎が「腰の鞘を立てて」梯子段を上って来たのを書生(藤吉か)が怪しんだという点です。鞘を立てて腰に差すのを「落とし差し」といい、これは抜刀する気がまったくない時の差し方です。そんな落とし差しで坂本龍馬を訪ねて来たのを怪しいと思ったというのは、当時の龍馬の周りがいかに緊迫した状況だったかを物語っているようで非常に面白い話だと思います。

 

 

・・・ただ、書生が怪しんで声を上げたので渡辺と桂が斬ったという話と、その隣の八畳の部屋にいた二人に「やあ坂本さん、しばらく」と声をかけたという話は、どうにも矛盾しているように思えます。なにしろ、この話では二階は二間しかないことになっているわけで、仮に襖が閉じられていたにせよ、隣の部屋で斬り合っているのと同時に「やあ坂本さん」は、いくらなんでもどうかと思うのですが。

 

 

※.落とし差しの例

 

 

 

※.結城無二三…礼一郎の書いた『旧幕新撰組の結城無二三』などでは無二三は元京都見廻組で、後に新選組に加盟したということになっているが、『結城無二三談話』(明治三十二年)の中で幕府の大砲組に入って長州征伐や鳥羽・伏見の戦いに参加したこと、その頃から近藤勇と面識はあったものの新選組には加盟していなかったこと、「甲陽鎮撫隊というものが出来て」参加し「役目は地理嚮導兼大砲差図役」であったことなどを自ら述べている。