京都見廻組 中川登代蔵(4) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

慶応二年(1866)、二条城御門番組は廃止され京都見廻組に編入されることになりました。中川登代蔵も養父萬次郎と共に見廻組の一員となります。この時、登代蔵十六歳。

 

 

ちなみに京都見廻組の役職と俸禄は

 

見廻役 (大名)三千俵 

与頭  (旗本)三百俵+役料三百俵

与頭勤方(旗本)二百俵+役料二百俵

肝煎  (御家人)七十俵五人扶持

見廻組 (御家人)七十俵三人扶持

見廻組並(陪臣など)四十俵

見廻組御雇(部屋住など)七人扶持

 

となっています。肝煎以下が実働部隊となっており、肝煎は新選組の組頭に相当します。中川登代蔵は「御雇」、一方、養父の萬次郎は当初一般隊士である「見廻組」として採用されましたが、翌慶応三年(1867)十一月までには肝煎に昇格していることが史料によって判明しています。また萬次郎は文武場剣術教授方、登代蔵は統陣太鼓世話方となっています。そして慶応三年二月には表火之番次席となっています。

 

 

そして、同年十月に将軍徳川慶喜は政権を天皇に返上し(大政奉還)、王政復古の大号令により新政府が成立します。慶喜は京を離れ大坂城に入りますが、江戸薩摩藩邸焼き討ち事件に触発された幕臣たちは再び京に入らんと軍を起こします。こうして翌慶応四年(1868)一月三日に鳥羽伏見の戦いが勃発するのですが、中川登代蔵の経歴を書いたものの中には登代蔵が養父萬次郎と共に旧幕府軍に加わり鳥羽伏見の戦いに加わったとするものがあります。

 

 

しかし、実際はどうだったのか少し微妙です。たとえば岩倉具視に提出した元二条城御門番組の姓名録の中には「京地に居残り候(者)」の中に「中川萬次郎伜 見習 中川登代蔵」とあり、大坂に行かずに京都に残ったことになっています。が、一方で同時期に作成された「元二條城番組姓名帳」の中では「中川万次郎伜 見習勤 中川登代蔵 生歳十九歳 旧臘十二日下坂 同廿四日立帰在京」とあり、こちらでは「旧臘」つまり前年十二月の十二日に大坂に向かい、同(月)二十四日に帰って来て今は京都にいるとなっています。

 

 

つまり、一旦大坂に向かったものの鳥羽伏見の戦いが始まる前の慶応三年十二月二十四日には京都に帰って来ていたことになります。その間の事情について、遺作となった小説『怪傑岩倉入道』の登場人物で、中川登代蔵自身をモデルとしていると思われる奥村譲太郎は、旧幕府軍に加わろうと願ったが年少であるがゆえに許されなかった。それでもあきらめ切れずに無断で家を出て単身大坂に向かおうとしたが、伏見で新政府軍に捕まってしばらく牢に入っていたとしています。

 

 

その後、許されて釈放されたのですが、それでも「大坂に行く」と言って聞かないので、「長州の隊長の林なんとか」なる人物に「大坂にやってあげてもよいが、あの辺はまだ危ないから、戦争が済んでからになされ」とたしなめられたということになっています。おそらく、これは真実なのではないかと思われます。

 

 

 

内容と関係ありませんが、中川登代蔵(四明。左)と俳優の島津健太郎さん。似てません?(笑)