犬神人 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

犬神人をご存知でしょうか。「いぬかみひと」と読んだらカッコ良さそうですが、実際は「いぬじんにん」と読むそうです。犬神人は祇園社(現在の八坂神社)に仕える神人の家来であり、神輿行列の露払い役であるほか、元々は毛皮などを神社に奉納するために狩猟を行なっていた弓の名手たちでもありました。

 

 

また、祇園社は元々奈良の興福寺の末寺に位置づけられ、主祭神も牛頭天王(ごずてんのう=祇園精舎の守護神)と素盞嗚尊(スサノオノミコト)を同一化するなど、神仏習合の神社でしたが、やがて興福寺と対立し、武装して上洛した興福寺の僧兵と戦闘になることもありました。その際に法衣に甲冑を身にまとい、自慢の弓で戦ったのが彼ら犬神人たちだったのです。

 

 

また、清水坂付近に居住していたことから「坂の者」、神輿行列の先頭を弓を抱えて歩くことから「弦指(つるさし)」と呼ばれていたほか、「ツルメソ」とも呼ばれており、江戸時代にはこれがもっとも一般的な呼称だったようです。

 

 

「ツルメソ」の由来については、「弓の絃(つる)を売るを業として、絃めそといふ。これは売り声につきて名をよぶなるべし。めそはめせの通音にて、むかしはつるめそ、つるめそと売り歩きしならん」(『閑田耕筆』寛政十一年/1799)と、弓の弦を売り歩くのに「弦召せ」の通音(同じ言葉で音が変化していること)で「弦召そ」と言ったという説がよく知られているようですが、一方で「弦売僧(つるまいそう)」から転じて「ツルメソ」と通称されるようになったという話もあります(『賤者考』弘化四年/1847)。個人的にはむしろこちらの方が納得できるような気がします。ちなみに「売僧」というのは商売をする僧侶に対する一種の蔑称でした。

 

 

ちなみに弓の弦を売り歩いていたのは、おそらく戦国時代以前の話であって、江戸時代に関しては『賤者考』に「今は転じて弦売ることはなく、名のみ残りて京の祇園の祭に出たつにより、神人めきて神人ならぬより犬神人ともかくなるべし」とあります。

 

 

代わりに江戸時代には懸想文というものを売り歩いていたそうですが、これは人生訓のような歌が書かれた紙を折りたたんだ中に米粒を二、三粒綴じ込んだ、いわば縁起物で、料金は一銭から百銭、その人の志し次第ということだったようです。

 

 

神人の家来という身分ではありましたが、神社に仕える身でありながら「犬」と呼ばれたことに違和感もあります。が、これは現代人の感覚で、もともと差別的な意味合いはなかったようです。ただ、江戸時代になって「仕える人」という立場が同じことから奉行所の与力・同心に仕えた目明かしのことを京では「犬」や「猿」と呼んでいました。その目明かしは元々罪人だった者や博徒あがりが多く、それが幕府の権力を傘に威張り散らしていたことから、庶民の間では「犬」に次第に悪い意味、蔑む意味が込められるようになったそうです。

 

 

余談ながら、犬神人がいたのなら、記録には残っていないけれども他にも猿神人や鳥神人なども、もしかしたらいたかも知れませんね。そんな獣神人たちが神を守るために戦った伝説なんていう、日本を舞台にしたファンタジーとかあったら面白いかも知れません。どうですかジブリさん(見てねーよ)。