不動堂村のはなし | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

新選組最後の屯所があったとされる不動堂村ですが、実は三代将軍家光の時代である寛永期には市場が出来て町になっていたという話を記事にしたのは、もうずいぶん前のことで2017年といいますから6年前になります。

 

 

つまり、幕末期に「不動堂村」は存在しなかったんじゃないかという話なんですが、だとしたら疑問なのが、西村兼文は、なぜ『壬生浪士始末記』の中で不動堂村と書いたのかという点です。西村は京都生まれの京都育ち。父親の代から西本願寺の寺侍だった人なので、町を村と間違えるというのは少し考えづらい。

 

 

そこでひとつ思いついたことがあります。それは非人集落としての、つまり幕府未公認の〝不動堂村〟が不動堂町とは別に存在したのではないかということです。江戸時代、いわゆる被差別民とされる人々は、その職業に関して厳しい制約があった、と思われがちですが、少なくとも京都においては洛南などの郊外の地を自ら開墾して田畑を耕し、集落を形成する人々がいたようです。

 

 

幕府は当初これを黙認していましたが、やがて年貢を課すようになります。つまり事実上公認したわけです。そうして、こうした非人集落は近隣の村落とも協調して、近隣村落との寄り合いに参加したり、祭事や労役なども周りの村と同じように責任を負うなど、〝普通の生活〟をしていました。が、江戸時代後期、天保の改革によって身分制度が厳格化された際に、非人たちの農耕は禁止され、先祖代々受け継いできた田畑も幕府に没収されてしまったようです。

 

 

江戸時代、彼ら被差別民はすべて浄土真宗、つまり東西本願寺の末寺の門徒であったので、没収された土地が西本願寺の管理地になり、幕末期まで続いたと考えても矛盾はないのかなと思います。またそうであれば西村が「不動堂村」という表現を用いたことも納得出来ます。ただ、これはあくまで僕の推測ですが。

 

 

西本願寺の天保の改革に関する史料を調べれば、あるいは何か出てくるかも知れませんが、そういう史料が果たしてあるかどうか。それに、これはかなりデリケートな問題を含んでいますので、現地に行って人に聞くというのも、なかなかしんどいでしょうね。