池田屋あれこれ(1)池田屋の間口 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

池田屋事件の舞台となった旅籠・池田屋の外観はどんな風だったのだろうと思って、色々と調べてみました。正直、結論と言えるような確かなものは未だ出ていないのですが、とりあえず、今書けるものを書こうと思います。

 

 

池田屋の建物の外観については、昭和五十五年(1980)放送のNHK『歴史への招待』の「新選組 池田屋騒動」の回で再現されています。この再現に関して、番組冒頭で司会の鈴木健二アナウンサーはこのように説明しています。

 

 

これが今から116年前の池田屋の表構(おもてがまえ)でございます。これは現存しております写真、あるいは文献、そして現在この跡が食堂ビルになっておりますが、それの持ち主の方のお話、そういったものに加えまして、私どもスタッフが実測し直し、更にですね、京都府文化財保護課の益田兼房さんに考証をいただきまして、こうして再現したものでございまして、言ってみれば本邦初公開でございます。

 

 

間口が三間と二尺あります。約6.6mでございます。二階が京都独特の紅殻格子(べんがらごうし)になってございまして、そして、ここに集まりました過激派の志士たちは、向かって左側の、この奥の八畳と六畳をぶち抜いて、そこに屯(たむろ)しておりました。

 

 

※.『歴史への招待』(NHK)「新選組 池田屋騒動」より、再現された池田屋の外観。(画像はお借りしたのでございます)

 

 

池田屋の大きさに関しては郷土史家の寺井萬次郎氏も「当時の間口三間半(約6.3m)、奥行き十五間(約29.6m)、客室十五室、畳六十一畳」で「二階は頭のつかえる真黒な天井」であったとしています(『鴨の流れ』第14号)。

 

 

間口が三間半(約6.3m)から三間二尺(約6.6m)程度あったということになりますが、江戸時代、京の町において間口三間(約5.9m)というのは、ごく一般的な民家の広さでした(参照『京都の町家と町なみ』丸山俊明)。店舗としては決して広くはない、というより、むしろもっとも狭い部類だったと思われます。ちなみに、京都の商人たちにとって成功の証しだったのが間口八間(約16m)の店舗を構えることでした。

 

 

現在池田屋跡に立つビルも幅は6m強ぐらいなので、間口三間半~三間二尺というのは概ね信用してよいのではないかと思われます。当時の三条小橋西側には、こうした間口三間半程度の旅籠屋がびっしりと軒を連ねていたことになります。

 

 

※.池田屋跡に立つ旅籠茶屋池田屋。