幕末ご意見番 太田資始(7)再び老中を辞す | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

大老井伊直弼と次第に意見の隔たりを生じるようになった太田資始ですが、そもそもは「激は好まぬ人」で攘夷論に関しても「なるだけ穏便と申す論」(『国事記』)だったといいます。それだけに安政の大獄のような強硬な弾圧は受け入れがたいものがあったのでしょう。

 

 

弾圧に「掛川(資始)怒り」直弼に抗議した結果、水戸藩家老の安島帯刀は「死を減じ遠島に相成り候由」、そしておそらく茅根伊予之介(ちのね いよのすけ。水戸藩奥右筆)も遠島か永蟄居で済み、斉昭・慶篤の両公は御許しということになるだろうという憶測が水戸藩内に流れたようです(『聿脩叢書』)。しかし結局は安島帯刀は切腹、茅根伊予之介は斬罪、徳川斉昭は永蟄居、徳川慶篤はお役御免という非常に厳しい処分となったのでした。

 

 

また外交交渉においても直弼に対し「外夷、いづれも難しく致し方これ無き故、打ち払い候方然るべし」、つまり諸外国は思ったほど強引な手段に出て来なかったので、いちど追い払うべき、つまりは攘夷を実行するべきと進言したのですが、直弼は、国内も治まっていないのに、外国勢を打ち払うなど、そんなに都合よくいくわけがないであろうと反論し、二人は激論の末「刃傷にも及ぶべきほどの様子」の末、直弼は「(資始の意見は)一切承知致さず」と吐き捨てて座を退出してしまいました。(『国事記』)

 

 

これが安政六年(1859)七月十五日の閣議の出来事で、その日、江戸城道三堀の掛川藩上屋敷にいつもより早い時間に帰って来た資始は、あきらかに元気がありませんでした。そして部屋に籠もって一筆書状を書き終えると、やにわに切腹を計りました。しかし資始の様子がおかしいことを察した側近たちがただちに資始を押さえて短刀を取り上げたので、大事に至ることはありませんでした。

 

 

太田備後守、登城より早めに帰り、何か不元気にて書付認め居り候に付、側近の者、心を付け候処、書付認め仕舞い、すぐに切腹致すべき様子に相見え候に付、詰め合いの者共大いに驚き、一同にて取り押さえ候処、もはや決心の上に候えば、留め申すまじと申し突き除られ候を無理矢理取り付け候上、次第柄承り候。(『国事記』)

 

 

結局、太田資始は再び老中の座を退くことになってしまいました。資始、時に六十一歳。

 

 

太田備後守病気に付、願いの通りお役御免成られ候旨、名代水野因幡守、太田運八郎へ芙蓉之間に於いて(井伊)掃部頭、老中列座中、(脇坂)中務大輔に申し渡す也。(『海警年表』安政六年七月二十三日)

 

 

建前は体調不良により自ら辞任を申し出たことになっていますが、実際は更迭だったのではないでしょうか。ただ体調が思わしくなかったのは事実なようで、水戸藩主徳川慶篤に辞職を伝える書翰に、幕府奥医師の多紀安琢や戸塚静海に診てもらっているが、あまり良くないのでお役御免の願書を提出することにしたと書き綴っています。

 

 

 

ひとつ訂正があります。この二度目の辞職に関する史料の中に、この時に道醇(どうじゅん)と改名したとするものが複数ありました。はじめは天保の改革で引退した時に既に道醇と名乗り、そしてこの二度目の引退(隠居)の時に再び道醇を名乗ったんだと考えていましたが、そうではなく、史料どおりこの時に道醇と名乗り始めたと素直に解釈するべきだと思います。

 

 

『忠義公史料』

備後守儀、道醇と改名仕りたき旨申し聞き候。よってこの段伺い奉り候。

(安政六年)八月九日 太田備中守

 

※.太田備中守…長男で掛川藩主太田資功のこと。

 

 

※.『江戸切絵図 内桜田』より赤色が太田家屋敷(図面右が北)