新選組 慈光寺邸を囲む | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

京都所司代の与力佐野正敬の手記に、池田屋事件の翌日すなわち元治元年(1864)六月六日に新選組が出動した記述があります。

 

 

一、翌六日夕七つ時頃、寺町丸太町慈光寺殿に召し捕り者これ有り候趣きにて、一橋殿人数及び会津、彦根、壬生浪士など百人余り抜き身と槍、鉄炮などにて取り巻き候処、最早四五日以前無理に暇を取り逐電致し候由にて、無事酉刻前引き払う。

 

 

六月六日の夕七つ時(午後4時)頃、寺町丸太町の "慈光寺殿” にて捕物があったらしく、一橋家や会津藩、彦根藩の兵士、そして壬生浪士(新選組)ら総勢100人余りが抜き身(の刀)や槍、鉄砲などを手にして取り囲んだ。しかし捕らえるべき相手は四五日前に無理に暇をとって行方をくらましてしまったらしく、(何事もなく)無事に酉刻(午後6時)前に引き払った、というのです。

 

 

ここでいう "慈光寺殿" とはお寺のことではなく、公家の慈光寺家を意味しています。当時、慈光寺家の屋敷は寺町通(南北)と丸太町通(東西)が交差する辻の西北側、つまり現在の京都御苑の東南角にありました。

 

 

※.横井小楠殉難の碑ごしに慈光寺家屋敷跡地(京都御苑東南角)を見る。現在はご覧の通り植樹されていて屋敷の名残はまったくありません。

 

 

ここを一橋家や会津・彦根の藩兵と共に新選組が取り囲んだというのですが、総勢100人余りということは新選組はせいぜい10人か20人程度だったでしょうか。それにしても前夜の激戦に続いて駆り出されたわけで、実際のところ、ヘトヘトだったんじゃないでしょうか。

 

 

佐野正敬はこの件に関して、「その節、形勢小子も見及び候事」つまり、自分も現場で形勢を見守っていたとわざわざ書き足しています。どうせ実際に見てたんだったら、新選組はどんな格好をしていたかとか、せめて誰が指揮していたとか書いてほしかったところです。

 

 

まあ相手はお公家さんですから、やっぱり近藤局長か土方副長は間違いなく出動していたと思いますが、きっと最初に慈光寺邸に入って交渉に当たるのは一橋家の偉い人で、万が一不逞浪士たちが屋敷内に集まっていて、刀を抜いて待ち構えているようだったら、「はい、出番です」って新選組が切り込んで行くという段取りだったんじゃないでしょうか。万が一にも一橋家や会津藩の藩士が公家である慈光寺家の家人に手をかけてしまったりすれば政治的に問題化されてしまう恐れがありますが、新選組隊士なら腹を切らせれば済んだかも知れません。

 

 

余談になりますが、そう考えると幕府方にとっては新選組の評判が良くなるのも考えものだったのかも知れませんね。「恐ろしい人らだと聞いていたけど、皆さん気さくでいい人たちばかりですわ」なんて評判が立ってしまったら、必然的に「それに比べて会津は、桑名は」ということになってしまいます。新選組は好んで人を斬るような血も涙もない乱暴者の集まりであった方が幕府に対する風評という点ではむしろ良かったのかも・・・。

 

 

それはさておき、池田屋事件といえば、幕府の役人たちがなかなか出動してくれないので、痺れを切らした新選組が単独で出動するという逸話が有名ですが、この慈光寺邸の一件や、あるいは坂本龍馬や中岡慎太郎らが隠れ住んでいた大佛の邸宅への出動など、幕府方は不逞浪士の潜居先を事前に割り出していて、ピンポイントに狙いを定めて襲撃している印象を受けます。当然ながら各地への出動は事前に計画されていたものであるはずで、池田屋事件はたまたま偶発的に起こったものの、六月六日の市内各地への出動は綿密に計画されていたんじゃないかと思います。

 

 

ただ、そうなると所司代与力の佐野正敬さんが、まるで他人事のように手記に書き留めていることが引っかかります。つまりは各地に散らばっていた不逞浪士の潜居場所を事前に探索していたのは、少なくとも所司代の手先ではなかったはず。おそらくは新選組だったのでしょう。そう考えると、池田屋事件に出動しなかった隊士の皆が屯所で待機していたわけではなかったのかも知れません。討伐隊が到着するまでの間、不逞浪士の潜伏先を見張っていた隊士もいたのではないでしょうか。