森寛斎と新選組(1) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

幕末から明治にかけて活躍した絵師・森寛斎は文化十一年(1814)一月十一日に長州藩の下級藩士石田伝内の三男として生まれました。幼名を幸吉といい、のちに尚太郎と改めています。

 

 

武士の家に生まれましたが、幼少より絵を書くことを好み武芸には関心がなかったため、親に折檻を受けることもありましたが、それでも絵を好む気持ちは変わりませんでした。十二歳の時に太田田龍に弟子入りして才能を見出され、天保二年(1831)十八歳の時に大坂に出て、円山応挙の弟子で応挙十哲の一人に数えられた森徹山に入門しました。

 

 

この時にはすぐに長州に帰国するのですが、天保六年(1835)春に京都に居を移していた森徹山に再入門します。すぐに頭角を現し、二十五歳になった天保九年(1838)には師匠徹山に森姓を名乗ることを許されます。更に天保十一年(1840)には正式に徹山の養子となり、実子として扱われ徹山の後継者となります。

 

 

ただ、この頃の円山派は既に衰退しており、徹山の家も貧しかったので、寛斎は堀川通佛光寺の、徹山の親類であった田中蔵之丞(※)の家に下宿していました。しかしその田中家も決して裕福ではなかったようです。寛斎は裏庭の土蔵に住み込んでいましたが、土蔵の中は物がなく空っぽだったため、寛斎はそれを皮肉って「見わたせば 質おく草もなかりけり 蔵の戸前の秋の夕暮れ」と歌を詠み、蔵之丞に激怒されたといいます。

 

 

そして翌天保十二年(1841)に師匠の徹山が六十七歳で亡くなり、寛斎は二十八歳にして森派を継ぐことになりました。とはいえ、当時の画壇において寛斎は全くの無名であったようです。

 

 

※.田中家は妻の実家であったようで、徹山の実子は画業を継がずに田中家の養子になり、仏師となったというので、田中蔵之丞は徹山の実子であったかも知れません。

 

※.晩年の森寛斎(ウィキペディアより転載)