人斬り松左衛門(19)切腹 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

文久三年(1863)三月二十三日、大日山に登った堤松左衛門の最期の様子については『堤義次割腹始末』『尊攘並街談混雑録』(ともに東京大学史料編纂所データベース参照)などに詳しく書かれています。

 

 

山頂に鎮座する大日堂の前に腰を下ろした松左衛門は、肥後藩邸である南禅寺の方角に手を合わせて何度も拝礼すると、突然脇差を抜いて腹を切りました。しかし当時の大日山は景勝地であり、遊山客も少なくなかったため、すぐに大騒ぎになって周りに人だかりが出来てしまいました。

 

 

松左衛門はやむなく立ち上がり、腹から脇差を引き抜いて振り回し、野次馬たちを追い払いました。そして近くにあった小さな茶店の軒先までフラフラ歩いて行くと、腹の血を指先にすくい取って白衣の袖に辞世の句を認めました。

 

 

そして喉を突いて死のうとしましたが致命傷にはならず、死に切れなかった松左衛門は近くに立っていた武士(あとをついて来た長州藩士かは不明)に手振りでとどめを刺してくれるよう頼みました。武士は応じて松左衛門にとどめを刺し、堤松左衛門はついに息絶えました。

 

 

その懐中には「私儀、去る十二月、江戸に於いて御国存亡の為、横井そのほか奸物討ち果たし申し候。公儀を顧みず右の次第、恐れ入り奉り候。死後の余罪、なおさら恐れ入り奉り候」と書かれた文を忍ばしていたといいます。

 

 

※.『再撰 京洛名勝図会 東山之部』より大日山大日堂付近(模写) 。よく見ると大日堂の手前に小さな屋根が描かれています。あるいはここが堤松左衛門が絶命した「小さな茶店」だったのではないかと思われます。

 

 

 

『防長回天史』などでは、前日二十二日に長州の吉田稔麿、高杉晋作らが関白鷹司輔煕に提出した、上洛中の将軍徳川家茂が江戸に帰ることに反対する建白書に、同じ肥後の安田喜助は署名したのに自分は加えてもらえなかったことに憤慨して切腹したのだとされていますが、その一方で、生前松左衛門は

 

土州の志士坂本龍馬、藩老吉田某(※吉田東洋のこと)を刺し、逃れて京師に来たり、長藩邸に潜伏す。義次(※堤松左衛門のこと)これを聞き、長人に語って曰く、彼国家の為に害を除きしは称すべしといえども、いやしくも国禁を犯して人を殺したる後、潜匿命を保たば、人、或いは死を惜しみ、利を貪るの徒となさん。豈(あに)大丈夫の恥辱にあらずや。

 

と言って、自分はたとえ国の為だとしても、同藩の要人を殺害するという国禁を犯した時は潔く腹を切って死ぬつもりだ、と語っていたといいます(『殉難十六志士略伝』など)。また轟武兵衛の証言でも正月に面会した時にはすでに「是非切腹致し申すべしと決心」していたというので、仮に建白書の件が直接のきっかけになったのだとしても、江戸檜物町で横井小楠らを襲撃した時点で、自死することを決心していたことは間違いないものと思われます。肥後脱藩浪士堤松左衛門、享年二十五歳。

 

 

 

 

・・・と、ここで終わるような書き方ですが、堤松左衛門の話はまだ終わりません。彼についてはもう少し書き残しておくべき話があるので、もう少しおつき合い下さい。