人斬り松左衛門(10)日本橋檜物町 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

文久二年(1862)も年の瀬の十二月十九日のこと。肥後藩士でありながら越前福井藩主松平春嶽の政治顧問となり、幕政改革に向けて数々の提言を行っていた横井平四郎(小楠)は、江戸常盤橋の福井藩邸内に一室を与えられて住居としていましたが、この日、同月二十五日に役替えで江戸を去り、京都に赴くことになった肥後藩江戸留守居役の吉田平之助に招かれて日本橋檜物町(ひものちょう)にやって来ていました。時刻は暮れ七つ過ぎといいますから、今でいうと午後6時から7時ぐらいになります。十二月であったことから、実際にはとっくに日は暮れて、夜になっていたのではないかと思われます。

 

 

常盤橋の福井藩邸から檜物町までは十町(約1.1km)ほどであり、徒歩で15分ほどの距離になります。吉田に招かれた先に関して、横井小楠自身は「町家」と書き残しており、他にも吉田平之助の別邸あるいは妾宅としている史料もあるのですが、『肥後藩国事史料』では酒を出す店という意味の「旗亭」としています。また小楠の家来内藤泰吉は「小楼」であったとし、福井藩の公式史料である『続再夢紀事』では「待合茶屋渡世某」の家だとしている他、敵の堤松左衛門も「婦人まじりに十四、五人、酒宴最中にてこれ有り」と証言していることから料亭であったことは間違いないと思われます。店の名前を潮来亭とする史料もありますが、噂話の域を出ていないようで、あまり信用出来る話ではなさそうです。

 

 

吉田平之助と小楠の他には、吉田と同じく同月二十三日に江戸を離れ京都に行くことになっていた肥後藩物頭の都筑四郎(御中小姓組)、そして同じく肥後藩の御用人谷内蔵之允が同席し、四人で別れの盃を交わす宴となりました。

 

 

ちなみに檜物町というのは江戸時代中期から発達した花街であり、特に天保の改革で深川芸者がだいぶこの地に流れてきた後は、江戸を代表する花街のひとつとなりました。檜物町の芸者は一般に「日本橋芸者」と呼ばれましたが、馴染みの客は「檜物町芸者」と呼んでいたそうです。檜物町花街は魚河岸の商人や町人を主な客とし、武士はあまり近寄らなかったといいます。横井小楠の命を狙う者がいるという噂は、すでに小楠本人の耳にも入っていたことを考えると、武士が近寄らない檜物町の料亭は非常に適切な場所だったといえるでしょう。

 

 

※.『江戸切絵図』「築地八丁堀 日本橋南之図」より。赤枠が檜物町。この絵図には描かれていませんが、上(北)の一石橋を渡ってすぐ左手に常盤橋御門があり、その目の前に福井藩邸がありました。ちょうど朱印のあたり。

 

 

 

芸者や女中を十数人も呼んでの宴会はさぞ賑やかだったことでしょう。天才肌の理論家という印象が強い横井小楠ですが、弟子の徳富一敬によれば、小楠は「よほど陽気な質」だったといいますから、こうしたドンチャン騒ぎは案外好きだったのかも知れません。ともあれ、四人のうち谷蔵之允が早々に帰ってしまったため、そのあとは三人で飲み続けましたが、夜五つ過ぎ頃(午後8時から9時頃)、表がにわかに騒々しくなりました。

 

 

(画像はお借りしました)