横井小楠と新島襄 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

お名前を出して良いのか確認していなかったのと、お話を聞かせていただいたあと、ノートに走り書きでメモした話であるため、多少の記憶違いがある可能性があるので、あくまで「京都市内の某所」で「ある人」に聞いた話ということにさせてもらいますが、ちょっと面白いし貴重な逸話でもあると思うので紹介したいと思います。

 

 

それはタイトルどおり幕末の肥後藩士で儒学者・政治学者であった横井小楠と、同志社大学の創始者でキリスト教の教育者・新島襄の二人に関するエピソードです。

 

 

※.横井小楠(左)と新島襄(右)

 

 

新島襄は横井小楠のことを大変尊敬していたそうで、晩年病に倒れ、もう長くはないと悟った時に、もし自分が死んだら葬儀は小楠が眠る南禅寺で執り行い、墓も小楠と同じ南禅寺天授庵の墓地に建てて欲しいと望んでいたそうです。

 

 

※.南禅寺天授庵

 

 

※.天授庵墓地・横井小楠の墓

 

 

 

しかし、キリスト教の指導的立場にあった新島襄の葬儀と埋葬に南禅寺が難色を示したため、やむなくこれを断念。しかし、「横井先生の眠る墓を見守り続けたい」という新島の願いに応えようと、地元京都出身の勤王家で神職の吉田黙(よしだ しずか)が骨を折り、天授庵を見下ろせる場所ということで若王子山の山頂の土地を確保し、新島の死後ここに彼の墓を建てたのだそうです。こうして新島襄の墓のある同地は現在同志社墓地となっているということです。

 

 

※.同志社墓地・新島襄の墓

 

 

ただし、これはあくまで「聞いた話」であって、裏付けはとれていないことをご留意下さい。ただ、お話しして下さったのは立場のある方であり、なおかつそのご先祖は勤王の志士たちと少なからず関係があった人物で、そのため現在も幕末や明治の貴重な記録を多数所持しておられます。

 

 

※.吉田黙…よしだ しずか。名の「黙」は、正しくは異字体の「 嘿」を書く。文政五年(1822)十一月二十八日生。維新前は吉田玄蕃と名乗っていた(字は重義)。嵯峨の尼寺曇華院(どんげいん)に仕え勤王家として活動する。攘夷派公家と志士の間を取り持った人物として知られる。維新後は京都白峯神宮などの宮司をつとめ、明治三十一年(1898)没。従六位。