人斬り松左衛門(7)宇郷玄蕃の暗殺 その五 | またしちのブログ

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文久二年(1862)閏八月二十二日の夜、宇郷玄蕃を襲撃し殺害に及んだ犯行グループに、肥後脱藩の堤松左衛門が加わっていたのは、土佐勤王党五十嵐幾之助の証言から間違いない一方で、岡田以蔵の関与の可能性は低いと思われることを前回お話しましたが、では他に誰が関与していたのか考えてみたいと思います。

 

 

宇郷玄蕃の暗殺に関与した可能性がある人物として、まず真っ先に挙げなければならないのが、久留米藩郷士の松浦八郎です。松浦八郎は五十嵐幾之助の証言によると、宇郷玄蕃をはじめ、この頃に暗殺された人物に対する斬奸状をほぼ一人で書いていたとされています。また、『武市瑞山在京日記』には事件ののち

 

二十五日 堤松左衛門、久留米藩松浦八郎来る。

九月一日 松浦八郎、堤松左衛門、樋口真吉来る。

同五日 堤、松浦など別杯致し内向の都合に付き、延す。

同九日 吉田(稔麿か)、松浦、堤来る。

 

とあり、共に行動していたことが伺えます。横井小楠や安井息軒、田中河内介父子、梁川星巌、藤本鉄石らに学び、斬奸状の筆を執るなど、どちらかとえば勤王党のブレーンのような存在だったのではないかと思われる松浦ですが、二日前に暗殺した越後浪士本間精一郎が「その胆、その武、たちまち勤王党中に知れる」(『勤王芸者』中西君尾)といわれていたのに比べ、今度の宇郷玄蕃は公家の家来であり、恐れるほどの相手ではないと踏んだのかも知れません。

 

 

その松浦八郎ですが、文久三年(1863)に脱藩して長州に赴き、翌元治元年(1864)に禁門の変に加わって敗れたのち、天王山で真木和泉らと共に自害しています。

 

 

 

そして、もう一人の関与を疑われる人物が、薩摩の人斬り田中新兵衛です。同じく『武市瑞山在京日記』を見ると

 

二十二日 小南へ行く。機密談。田中新兵衛も呼びに遣い来る。互いに談ず。新兵衛同道にて薩屋敷へ行く。晩方まで談じ、それより海江田武二へ行き面会。それより帰宿。

 

と、事件当日に武市半平太とかなり長い時間一緒にいて、何か「機密」を話し合っていたことが伺え、更に翌日には

 

二十三日 朝、孫二郎来る。松原通に宇江玄蕃頭の梟首ある由なり。田中新兵衛来る。

 

と、武市の元を訪れています。これは事件の報告であったと考えても問題ないと思われます。そうだとして、この事件では土佐勤王党は主導的役割ではなかったらしいということを合わせて考えると、この宇郷玄蕃暗殺の一件は、田中新兵衛が指揮していた可能性もあるのではないでしょうか。

 

 

と、この二人については関与していた可能性があると考えることが出来そうですが、おそらくあと二人はいたであろうその他の共犯者については、残念ながらまったくわからないと言うしかなさそうです。