斎藤一と吉田道場(8)鈴木万次郎 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

斎藤一の主人だった鈴木万次郎は親之輔の養子となって家督を継いだのですが、ただ単に養子として迎えられたのか、それとも親之輔に娘がいて、その婿養子だったのかはわかりません。ただ、婿養子だったとすると、親之輔には年頃の娘がいたことになります。それはつまり、主従の関係ではありながらも、一と親之輔の娘は同じ屋敷で一緒に育ったということで、淡い初恋の話など想像してみたくなるものです。

 

 

そこに万次郎という恋敵があらわれて、縁談が決まって鈴木家の当主となってしまったのですから、一にしてみたら面白いわけがない。そんなところへ、「おい、妻と一緒に外出するからお前もついてこい」ということになって、ほんの些細な言い争いがきっかけとなってしまって、お互い腕に覚えがある同士ゆえ、ついつい抜き差しならなくなって刀に手をかけ・・・ということだったかも知れません。

 

 

無論、万次郎は死んでいないので、実際には手疵を負った程度か、あるいはそれすらもなかったかも知れませんが、主人に刃を向けてしまった一が屋敷にいられるわけはありません。江戸にいること自体許されなかったはずです。そこでやむなく父の知己を頼って京に逐電したということだったのかも知れません。

 

 

 

さて、時は流れて慶応四年(明治元年/1868)八月、鈴木万次郎は新政府に対し所領安堵を求める陳情書を提出しています。(『旧旗下ノ者本領安堵ヲ乞フ 鈴木万次郎』国立公文書館)

 

鈴木万次郎届 弁事宛

 

朝政御一新に付き、当辰二月中、尾州様より勤王の儀、御誘引これ有り、有り難く承知奉り候。素より勤王遵奉の志願に付き、三月五日家族一同江戸表出立。甲州道相越し候処、勝沼辺戦争の趣き、通行出来難きに付き、一度江戸表へ引き戻し、三月十四日商船乗り組み候処、風模様にて漸く四月三日知行所陣屋に着き仕り、速やかに上京仕るべく候処、昨卯年より脚気症にて起居甚だしく不自由、深く心労、種々養生仕り候(以下略)

 

 

※.『旧旗下ノ者本領安堵ヲ乞フ』~「鈴木万次郎」(国立公文書館デジタルアーカイブ)

 

 

一月に鳥羽・伏見の戦いが勃発、錦の御旗を掲げた薩長軍が勝利し、徳川軍は江戸に敗走しました。そして二月、万次郎のもとに尾州様(尾張藩主徳川慶勝)から「勤王の儀、御誘引これ有り」、つまり幕府を見限って官軍に味方せよとの誘いがあり、もとよりそうしたいと願っていたので、家族一同を連れて知行所(三河国賀茂郡則定)を目指して甲州道(東山道)を進んだ。しかし、勝沼のあたりで戦争が起こって通行が叶わなかったのでやむなく引き返した。

 

 

そして三月十四日に商船に乗り込み、海路三河を目指したが、風の影響で四月三日にようやく則定陣屋に到着することが出来た。本来ならすぐにでも上京するべきだったが、昨年より脚気の症状があり、起きるのも困難な容態だったのでしばらく養生していた、としています。

 

 

結局万次郎が上京したのは八月五日のことでした。ちなみに江戸城無血開城は四月十一日、彰義隊の上野戦争は五月十五日のことなので、江戸の争乱が鎮静して三ヶ月たってから、ようやく京に上って「官軍へ味方したい」と願い出たことになります。

 

 

そのことを含めてこの話、どうも怪しい。個人的な意見を言わせてもらうと、おそらくは嘘だろうと思うのです。三月五日に江戸を出立したが、甲州勝沼あたりで戦争が起こったので、やむなく引き返したと言っているわけですが、その戦争の当事者である、近藤勇が率い、斎藤一も従軍している甲陽鎮撫隊が江戸を出立したのは、わずか四日前の三月一日のことです。それを知らなかったはずがないと思います。

 

 

ちなみに三月五日といえば、東海道を進軍していた東海道鎮撫軍は、天竜川の増水により前月二十九日から浜松宿に足止めを食らっていました。新政府軍に味方するつもりなら、東海道を行くという手もあったはずです。新政府軍と出くわしたとしても、尾張公からもらったという書状を見せて、「知行所に家族を置いたあと、京に向かい指図を仰ぐ」と言えば捕まったりすることもなかったでしょう。

 

 

それなのに、甲陽鎮撫隊が出陣した後を追うように甲州路に向かったのは、実は甲陽鎮撫隊に味方するつもりだったのではないでしょうか。その甲陽鎮撫隊にはもちろん斎藤一も加わっていました。かつてはいさかいを起こしてしまった二人が、しかし同じ剣の道を志す者同士、どこかで気持ちが繋がっていて、「今行くからな。待ってろよ一(はじめ)!」・・・なんていう展開は、さすがに妄想が過ぎるでしょうか。

 

 

さて、維新後の鈴木万次郎ですが、諱をとって鈴木重備(しげおさ)と名乗り、翌明治二年には東京府貫属士族となると同時に知行地を召し上げられてしまいます。東京に戻ったものの生活は苦しかったらしく、榊原鍵吉が旧幕臣救済のために創設した撃剣会の興行に加わったりしたようです。

 

 

同じ東京の空の下、二人がどこかで出会う機会もあったかも知れません。

「万次郎様ではありませんか」

「おお、一じゃないか」

お互いの無事を喜び合い

「あの時の傷跡、まだ残っておるぞ」

なんて笑いながら酒を酌み交わしたでしょうか。

 

 

・・・・・・まあ、妄想ですが。

 

 

 

鈴木家は重備のあとを息子の重誠が継ぎましたが、その重誠に男子はなく、娘も他家に嫁いだため後継者がおらず、則定鈴木家の直系は断絶となってしまったそうです。