渡邊昇談話を読む(17) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

さて、前回少しお話しましたが、慶応元年(元治二年/1865)四月二日に京都見廻組の西原邦之助を、そして慶応二年(1866)四月一日の夜に新選組の谷三十郎を斬ったのが、実はいずれも渡邊昇だったとすると、話はうまい具合に噛み合います。

 

 

 

西原を斬ったことで幕府に追われ、しかも渡邊は大村藩のれっきとした藩士であったので、幕府側は逮捕するよりも暗殺という手段を選んだ。そして一年後に再び渡邊が上京したことを知って、その命を狙うが、渡邊と旧知の仲であった新選組局長の近藤勇は、渡邊を助けようと手を打った。それが神道無念流と縁のある谷三十郎を遣わして渡邊に帰国するよう説得することだったが、夜道に突然声をかけられた渡邊は、谷を斬ってしまった。

 

 

 

とすれば、パズルのピースはきれいにはまりそうに思えます。見廻組と新選組の両方を斬ったとなれば、倒幕派の志士としては大いに自慢になるところだったでしょうが、新選組の方は実は自分を助けようと声をかけたのだったのあとでわかったのだとしたら、やはりそれは自慢にならない。だから二つの事件を都合よく一つにまとめたと考えたら合点がいきます。

 

 

 

また、渡邊昇は大阪府知事時代に勃発した西南戦争で政府軍に抜刀隊が組織されることになった時、谷三十郎の弟万太郎をその隊長に推挙していますが、これも兄の三十郎を誤って殺害してしまったことに対する償いの気持ちを含んでいたと解釈することも出来るでしょう。

 

 

 

では、そういうことでこの話をまとめてしまって良いのかというと、もちろんそんなことはありません。渡邊昇本人に関しては慶応二年七月に滝口大助の変名を用いて長州に赴いていることはわかっているものの、四月の時点でどこにいたのかは不明なため、一応四月に京都にいたとしても不都合はないということになりますが、大久保邸で面会し、一緒に酒を飲み帰藩を促されたとする坂本龍馬は、同年一月二十三日に寺田屋事件で負傷し、その後、西郷吉之助のすすめでお龍とともに鹿児島に行っているので四月に京都にいた可能性はまったくありません。

 

 

 

ただ坂本龍馬は、京都見廻組の西原邦之助が殺害された慶応元年四月には京都にいたことがわかっています(四月二十二日に京都を出立した記録あり)。が、慶応元年の時点で龍馬が渡邊昇に「お前は京都にいても危険だから国へ帰れ」というのは理屈が合いません。

 

 

 

やはり、渡邊昇は話を都合よく “盛っている” ものと思われます。仮に西原邦之助と谷三十郎の二人を殺害したのが渡邊昇だったとしても、渡邊を尾行していた黒装束の二人組が西原だったのか谷だったのかは断定出来ないわけで、そもそも話の信用度にも疑問を呈さざるを得ないとなれば、渡邉の証言を元に「新選組の隊服は黒羽織」とすることには、やはり「待った!」をかけたいと思うのです。

 

(終)