渡邊昇談話を読む(3) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

『死生の境』収録の「子爵渡邊昇氏談」の、新選組に関する証言の部分を紹介する三回目です。これが最後になります。前回と比べるとかなり短いですが、例の道場破りの助っ人の件に関する証言です。

 

 

 

さて我輩が近藤を助けたいというのは他でもない。自分が江戸は番町、斎藤先生の門に入って、不肖ながら塾頭を勤めていた時分、近藤は市ヶ谷八幡の附近に道場を構えていた。ところが門生はそうまで多くはなく、従って他流試合の、いわゆる道場荒らしの浪人が来るたびに、あらかじめ我輩に乞うて斎藤の門生を借りる事にし、それを自分の門弟のように見せかけて立ち会わすのを例としていた。

 

それには面白い一条の話が残っている。かの近藤が斎藤の門生を借りに来る前に、まず道場荒らしの技量を察して、強そうなれば強い門生、弱そうなれば比較的技量の劣った門生を借りに来た。すなわち彼は手紙を認めて、上を幾人、中を幾人、下を幾人と区別して、しめて幾人の借用を頼むと言って来た。

 

この申し込みに接すると、すぐに我輩は申し込み通り、上を幾人、中、下を幾人と、人数を揃えて秘かに貸してやったが、さて同門の者共は、この申し込みによって選抜されて行くのを非常に喜んだものだ。というのは近藤が、試合の礼として酒を振る舞ってくれたからである。で、その振る舞い酒に舌鼓を打とうと、我も我もと競争して行きたがった。だが、馳走は酒ばかり、別に美肴があるではない。皿に盛った沢庵を好下物(さかな)として冷酒をあおるだけである。・・・それはさて我々仲間では、この沢庵をば「亜米利加(アメリカ)の刺し身」と呼んでいた。

 

 

※.天然理心流「試衛館」跡(市谷柳町)

 

 

渡邊昇の新選組に関する証言は以上になります。本文はこのあと、兄の渡邊清や坂本龍馬・中岡慎太郎、または和田祐馬らの助言を容れて大村に帰藩したこと、その大村藩では当時の諸藩の例に漏れず、倒幕派と佐幕派の対立があったことを一通り説明したのち、「やがて慶応三年となった。その正月の三日~」と文章が続いています。つまり、二条城の前で黒装束の曲者を斬った一件は、慶応二年の出来事であったことがわかります。