攘夷の残花(4) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

慶応四年(1868)二月三十日の昼下がり、明治天皇に謁見するため、宿舎である知恩院を出立して御所へと向かっていた英国特命全権公使ハリー・パークス一行の隊列は、新橋通から縄手通へと差しかかっていました。

 

そして、パークスの前にいた12騎の騎馬護衛隊が丁字路を曲がって縄手通に入った途端、角の菓子屋から二人の男が飛び出しました。二人の暴漢は拳銃を一発撃ち放つやいなや、左右に分かれ、二列縦隊で行進していた騎馬護衛隊の騎兵たちに狂ったように襲いかかりました。

 

不意をつかれた騎馬護衛隊は、さほど広くない縄手通を二列に並んで進んでいたために十分に身動きがとれず、装備していた長い槍もかえって邪魔になってしまい、反撃もままならないまま、なすすべもなく次々と斬られていきました。

 

騎馬護衛隊の前を進んでいた中井弘蔵は異変に気づくとただちに馬を飛び下り、刀を抜いて暴漢の一人に斬りかかりました。激しい刃の撃ち合いとなり、火花が飛び散るのが見えたと伝わります。

 

暴漢はかなり手強く、押され気味になった中井は自分の袴に足をもつれさせて尻もちをついてしまいました。絶体絶命の中井にとどめを刺そうと、暴漢が真っ向から振り下ろした刀を中井は間一髪でかわし、暴漢の胸を突き刺しました。ちょうどその時、やはり異変に気づいた後藤象二郎が駆けつけ、背後から暴漢を袈裟斬りに切り下げました。

 

倒れた暴漢の首を中井が斬り落としてとどめを刺しましたが、遺体を調べたところ、懐に辞世の句を認めた懐紙が入っており、この暴漢の名前が朱雀操(すざく みさを)だと判明しました。一方、この間にもう一人の暴漢は身をひるがえしてパークス公使らのいる新橋通に入って行きました。

 

※.事件を伝える仏ル・モンド紙の挿絵

 

 

 

 

※.事件現場となった新橋通(右)と縄手通の交叉点付近。暴漢二人は角の北側にあった菓子屋から飛び出したという。今は料亭になっている模様。