攘夷の残花(1) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

京都東山の名刹、華頂山知恩院は浄土宗の宗祖法然上人が後半生を送り、その生涯を終えた地です。

 

 

※.知恩院三門(国宝)

 

 

浄土宗に深く帰依していた徳川家康によって手厚い保護を受け、諸堂の造営が行われ、更に二代将軍秀忠によって三門が建設されるなど、寺域は大きく広げられました。

 

 

 

その三門の前の参道はゆるやかな下り坂となっていますが、かつてここには桜並木が立ち並んでおり、桜の馬場と呼ばれ、洛中でも指折りの桜の名所でした。

 

 

※.三門前参道(桜の馬場跡)

 

 

慶応四年二月三十日(西暦1868年3月23日)といえば、江戸に逃げ帰った徳川慶喜が天皇に対して逆意のないことを示すため、上野寛永寺に謹慎中の時期であり、その徳川慶喜を討たんと新政府軍が江戸をめざして進軍を続けていた時期でもあり、また前日の二十九日には信州小諸において先鋒嚮導隊(元赤報隊一番隊)の隊長相楽総三が最後の弁明文を東山道鎮撫総督府に提出した、そんな時期でありました。

 

そんな二月三十日の早朝、この知恩院三門前の桜の馬場に異形の集団が集結していました。それは知恩院を宿舎としていた英国特命全権公使ハリー・パークスの一行と、その護衛をつとめる二つの部隊 ― 公使警護のためにロンドン警視庁から選抜派遣された騎馬護衛隊(隊長ピーコック警部)と、英国陸軍第九連隊第二大隊分遣隊(歩兵隊。指揮官ブラッドショー中尉とブルース中尉) ― そして彼ら英国人を警護する尾張・肥後・阿波の藩兵たちでした。

 

この日、イギリスとフランス、オランダの三カ国の公使が御所に参内し、天皇に謁見することになっていたのです。この三カ国公使の謁見は、薩長が主導する維新政府が日本国の正規の政府であることを内外に示す意図があったのでした。