猿の文吉と都の闇(4) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

ちょっと間が空いてしまいましたが、実は二つばかり訂正したいことがあります。

 

ひとつめはこれまで他の記事でも何度か書いてきた「三条大橋北側の晒し場」について。当時の史料にたびたび出て来て、文吉もこの場所で晒されたわけですが、この晒し場は処刑された罪人の遺体を晒す場所だと解釈していたのですが、どうやら違ったようです。

 

というのも、『佐野正敬手記』に「晒屋棒杭にしばり有之」とあるのです。「晒屋」ということは、当然ながら商売のための晒し場だったことであり、処刑場ではなかったということになります。つまり晒し場といっても罪人の遺体を晒すのではなく、おそらくは染め物などを晒す場所だったのだと思われるのです。

 

江戸時代以前、鴨川の河原はもともと洛中の主要な処刑場であり、豊臣秀次の妻子ら39名が斬首されたことでも有名ですが、江戸時代に入って町の経済が発展したことで、産業や行楽のための場所として河原が必要とされ、主要な処刑場は郊外の粟田口へと移っていったのでしょう。

 

そのことから、文吉が縛り付けられた杭は、この染め物を晒すための杭をそのまま使用したものだと思われます。

 

 

そしてもうひとつの訂正なのですが、(1)で文吉と娘が洛北岩倉の松茸山に物見遊山に出かけた帰りに襲われたと書きました。これは当時の史料『岡田良之助雑記』などに書かれていることをそのまま引用したのですが、引用しつつも疑問に思うことがありました。

 

というのも、文吉の自宅は高倉通押小路上ルにあり、下の図を見てもらえばわかると思いますが、北の方から帰って来たのであれば、手前の二条橋を渡らないと、かなりの遠回りになってしまいます。また、娘が翌日に店出しする予定だった二条新地の森田屋も二条通の北側になるので通り過ぎてしまっています。

 

親子で話に花を咲かせているうちに、ついついニ条通を通り過ぎてしまったのか、などと考えていましたが、別の人物に関して調べているうちに、どうもそうではなかったらしいということに気づきました。

 

どうやら文吉が娘を連れて物見遊山したのは、洛北の岩倉ではなく、蹴上の東岩倉山だったと思われます。蹴上は三条通粟田口の先にあり、東岩倉山は日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)の裏手にあたります。現在は鬱蒼とした森林となっていますが、江戸時代には藤や桜、また紅葉の名所として有名で、なおかつ山頂から洛中を一望出来る景勝地でした。『花洛名勝図会』によると「晩秋の頃は花洛の良賤茸狩りを催し~」とあり、キノコ狩りの名所であったこともわかります。

 

この東岩倉山だとすれば、粟田口を下って三条通を三条大橋の手前で右折すると川端通となるので不自然さはありません。

 

 

 

※.「文久二年京都細見図」より。上が北となる。薄い青線が文吉が襲撃を受けた川端通二条下ル。洛北から帰って来たとすると、二条通より南下するのはおかしい。