お梅という女(15) | またしちのブログ

またしちのブログ

幕末史などつれづれに…

「八木為三郎老人壬生ばなし」によれば、お梅の遺体はしばらく八木邸に留め置かれたといいます。というのも、菱屋の方では「あれは芹沢局長の奥様になるから暇をくれとの事で、暇を出しましたから」といって遺体の引き取りを拒み、壬生浪士組の方でも近藤勇が「かかる氏素性も知れない売女と芹沢先生を合葬することは出来ない」として、芹沢と一緒に埋葬することを許さなかったというのです。

 

結局、事件から三日か四日目に、西陣にあったお梅の実家に遺体は引き取られていったといいます。あさくらゆう先生の『新選組を探る』ではお梅を菱屋の一族の娘であるとし、菱屋の菩提寺である長圓寺( 京都市上京区智恵光院通笹屋町西入ル。島田魁の墓所でもある )に埋葬されたのではないかと推察されています。

 

これがお梅の最期に関する、現在までのもっとも進んだ研究結果だということに異存はありません。ただ、(1)でも書きましたが、今回はあくまで想像を膨らませて、自分が納得出来る結論というのを考えてみました。

 

 

大正11年(1922)のこと。歴史学者で維新史研究家であった田尻佐(たじり すけ)は史談会に招かれ、数年前に壬生の芹沢鴨の墓を訪れた時の、次のような逸話を語り残しています。

 

私はこの話を聞きすぐに芹沢の墓を訪ねましたが、墓所には当時の芹沢を知っておるところの婆がおりまして、私が墓に参りましたのを大変喜びまして、まことに芹沢さんという人は良い人であったが、とんだ目におあいなすった。

 

あなたが墓参りをしてさぞ本人も地下で喜ぶことであろうというようなことで、その老婆が涙を流しました。これについて察するも、芹沢なる者はただ意見の衝突をもって近藤勇派に殺されたので、単に酒食のためではないということがわかりました次第であります。

 

田尻はこれを「先年京都に行って調べた時の話」だとしていますが、この「先年」という言葉は一般に一昨年以前の数年前のことを意味します。つまり、概ね3~5年前くらいということになり、大正5(1917)から同7年(1919)あたりの話だと思われ、それは事件のあった文久三年(1863)から54~56年後の話ということになります。

 

芹沢鴨が京都にいたのは文久三年の三月から九月までの、わずか半年の間に過ぎません。そうなると、仮に芹沢に派手な女性遍歴があったとしても、半世紀以上も経ったのちに、見ず知らずの他人が芹沢の墓参りに訪れたことを、涙を流して喜ぶほどの女性というのは、やはり限られてくるのではないでしょうか。

 

あさくら先生はお梅を単なる愛妾ではなく、芹沢の内縁の妻だったのではないかと推察されていますが、それは僕も全く同感です。だとすれば、芹沢の墓に手を合わせる人に涙を流して喜ぶような女性は、お梅しか考えられないのではないでしょうか。つまり、実はお梅、死んでいなかったのではないか。

 

お梅は文久三年当時二十二、三歳ぐらいに見えたといわれているので、二十代前半の年齢だったとすると、大正5~7年頃には七十代後半から八十歳を少し越えるぐらいということになり、年齢的には符合します。

 

これは無論、完全な推測になるのですが、たとえば襲撃の際に不覚にもお梅に重傷を負わせてしまったが、お梅は命の危険まではない状態だったとします。そうなったら襲撃した側の土方からすれば、口封じのためにとどめを刺して殺してしまうというのも、ひとつの選択肢だったとは思いますが、やはりここは殺さずに助けるだろうと思うのです。

 

女性を手にかけてまで口封じをしたいというならば、顔を見られた可能性のある八木まさが何事もなく無事だったことと辻褄が合いません。犯人は長州系の浪士だとでっち上げているのですから、八木家の人間が殺されても不思議はないではありませんか。

 

そう考えてみると、「八木為三郎老人壬生ばなし」の、「首の皮一枚残す位に斬られていたとの話でした」というのもどうでしょう。「首の皮一枚残す」は、本来「殺された」の意味ではなく、死なずに済んだことを表す慣用句です。「(お梅も斬られたが)首の皮一枚残っている」、つまり本来は「お梅は助かった」という意味だった大人たちの話を聞いた為三郎少年が、「お梅は首を斬られて殺された」と思い違いしてしまったと考えられなくもありません。

 

芹沢の暗殺には、おそらく間接的に会津藩の意向があっただろうと思われます。会津藩としては壬生浪士組局長芹沢鴨を粛清する必要があった。とすれば、仮にお梅が「実はかくかくしかじかで、芹沢さんを殺したのは土方歳三たちです」と奉行所などに訴え出たとしても、取り合ってはもらえなかったでしょう。だとすれば、むしろ生かしておいても特に不都合はない。

 

かといって、芹沢と事実婚の状態であったとすれば、菱屋に戻るわけにもいかない。菱屋の「内の妾」から芹沢の「内縁の妻」になるまでに、いろいろとあったろうことは想像に難くありません。更に、西陣の生まれであるお梅が、もし大和屋焼き討ち事件に何らかの関わりがあったとすれば、あるいは事件の「真の実行者」たちがお梅に報復するかも知れません。文久三年九月十六日以後の人生がお梅にあったとすれば、お梅はお梅でない方が生きやすかったと思われます。表向きには死んだことにして数日間八木邸で療養したのち、お梅は人知れず実家に戻ったのではないでしょうか。

 

「お梅という女は、あの夜芹沢さんと一緒に死んだ。アンタはこれから別の人生を歩んでくれ。我々も出来るだけのことはする」

 

そういう、まるで結束信二が書いて栗塚旭に言わせそうなセリフを、本物の土方歳三がお梅に言っていたとしたら、それもまた一興ではありませんか。

 

(終)

 

 

※.画像は『新選組血風録』よりお借りしました。