お梅という女(11) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

芹沢鴨暗殺事件に関して、どうしても合点がいかないことが実はもうひとつあります。それは、もうひとりの女、糸里に関することです。

 

 

 

 

 

 

此の時、芹澤鴨四条堀川へ入処菱屋と申す内の妾於梅を愛し居る。右お梅を呼び、平山五郎島原桔梗屋抱お栄、平間重助は島原輪違屋抱糸里、何れも呼び、一坐にて大愉快。

 ~『浪士文久報国記事』(永倉新八)

 

平間は、そのまま私達がはじめに寝るつもりであった右側の室に入って寝てしまいました。察するに先程の女(永倉記録。輪違屋糸里)は平間のところへ来ていたものでしょう。

 ~『新選組遺聞』(子母澤寛)「八木為三郎老人壬生ばなし」

 

 

糸里は輪違屋お抱えだったようで、浅田次郎の小説『輪違屋糸里』では天神ということになっていたり、ウィキペディアでは「京都島原の置屋輪違屋の天神(芸妓)」となっていたりしますが、永倉新八の『浪士文久報国記事』に「島原輪違屋抱」、同じく『新選組顛末記』や子母澤寛の『新選組始末記』には単に「輪違屋の糸里」とあるぐらいで、天神だったという当時の記録はありません。

 

ちなみにその天神とは島原遊郭において太夫につぐ高位の遊女で、一方、芸妓は酒宴などにおいて楽器を奏でたりする女性のことであり、芸妓は基本的に売春をしません。天神と芸妓は全く別物であり、相容れない立場でもあります。

 

 

さて話を戻しましょう。事件当日、糸里は、いつの間にか八木邸に入り込み、為三郎たちが寝るはずだった玄関左手の部屋に真っ暗な中ひとりしゃがんでいたといいます。そして平間重助の帰りを待っていたというのです。

 

その平間は、あまり深酒をする人ではなかったようで、この日もほとんど酔っていなかったそうですが、八木邸での土方を交えた酒宴が終ったあとは糸里と共に玄関左手の部屋に入って床につきました。

 

平間重助は水戸行方郡芹沢村の出身で、芹沢鴨とは主従の関係にあったと考えられます。特に剣術に関しては芹沢に神道無念流の指導を受けた厳然たる門弟でありました。浪士組にも芹沢に従って参加したとみられ、壬生浪士組では勘定方を務めていました。

 

そんな平間重助が、糸里と共に玄関左手の部屋で床についたのです。あらかじめ糸里が布団を敷いて用意していたのでしょう。そして、それが幸いしたのか、深夜の襲撃の際に二人は難を逃れることが出来たのですが、芹沢鴨が暗殺されるというインパクトの強さに隠れてしまって、あまり深くは考えられて来なかったと思われる二人の生存、よくよく考えてみるとどうもおかしいと思うのです。

 

暗殺事件の夜ということを一旦頭から除いて考えてみて下さい。つまり、この夜もごく普通の壬生浪士組の日常だったと考えてみましょう。

 

たとえばこの夜、京のどこかで何者かが商家に放火する事件が発生したとします。そして壬生浪士組に出動要請が入ったとする。奉行所の使いの者か誰かが母屋の玄関先までやって来たとしたら、応接に当たるべきは平間重助でなければならなかったはずです。少なくとも芹沢が直接応接することは局長という立場上、あってはならなかったはず。

 

更にいえば、万が一襲撃を受けた際に局長を守るためにも、平間が本来寝るべきだったのは玄関先の六畳間ではなかったでしょうか。そして、もし平間が六畳間に寝ていれば、平間が襲われている間に芹沢と平山五郎は目を覚まして、刺客に応戦出来たかも知れません。平間が玄関左手の四畳半部屋ではなく、玄関先の六畳間に寝ていさえすれば、「芹沢鴨の暗殺」は失敗に終った可能性が高いのです。

 

そう考えると、平間を玄関左手の部屋に誘導した糸里という女性を、一度 “しっかりと” 疑ってみる必要があるように思えます。