お梅という女(4) | またしちのブログ

またしちのブログ

幕末史などつれづれに…

さて、このまま事件の顛末を追い続けてしまっては、お梅を軸に考えるという主題からはずれてしまうので、ここでお梅について考えてみましょう。

 

お梅については、『新選組始末記』(子母澤寛)に「四条堀川の太物問屋菱屋の女房お梅」、同様に西村兼文の『壬生浪士始末記』にも「四条堀川辺の呉服商某の妻ムメ」と、いずれも四条堀川の(菱屋の)女房だったと書かれていますが、同じ子母澤寛の『新選組遺聞』収録の「八木為三郎老人壬生ばなし」で

 

よく四条堀川の太物問屋菱屋の女房を芹澤が奪ったのだといいますが、実は菱屋の女房ではなく妾だったのです。なんでも元は島原のお茶屋にいたことがあるという話で、垢抜けがしているし、愛嬌がいいので、隊士達もこの女を見ると、「女もあのくらい別嬪だと惚れたくなる」などといったものです。

 

として、実は女房ではなく妾だとしています。同様に為三郎が七十六歳の時(昭和元年頃)に大阪毎日新聞紙上に掲載された「隣の部屋から見た新撰組の乱闘」にも「四条堀川に菱屋という呉服屋がありましたが、そこの妾お梅はなかなか別嬪でした」と語っているほか、永倉新八の『浪士文久報国記事』にも「四条堀川西へ入ところ菱屋と申す内の妾お梅」とあります。

 

つまりはお梅、菱屋の妻だったか、もしくは妾だったようで、その菱屋というのは四条堀川に店を出していたということで間違いなさそうなのですが・・・。

 

※.菱屋があった?四条堀川界隈。

 

 

そのお梅と菱屋の関係について、一歩踏み込んで調べておられるのが、あさくらゆう先生です。先生の『新選組を探る』によると、実は菱屋は四条堀川ではなく、五辻通堀川西入ル山名町にありました。実はこの菱屋は、新選組の屯所のひとつとなった前川家とは親戚であり、しかも山名町の文書によると、事件のあった文久三年当時、菱屋の当主太兵衛はまだ未婚だったようです。

 

菱屋は太物問屋でしたが、絹物を扱うのが呉服問屋で、それ以外の生地を扱うのが太物問屋といいます。その菱屋の創業は古く、町年寄をつとめる家柄でした。太兵衛はそもそも次男だったので、当初は分家していたそうですが、兄が文久元年に死んだため本家を継いだのだそうです。そうした事情もあってか、妻を娶るのが遅れたばかりか町の役職も辞退していたといいます。

 

未婚の太兵衛に妾がいるのはおかしいことなどから、あさくら先生はお梅を菱屋の親族であったと考察されているのですが、ここは僕なりの推測を付け加えさせていただこうと思います。

 

・・・が、長くなるので次回に。

 

 

※.菱屋があった五辻通堀川西入ル山名町。