お梅という女(3) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

一方で永倉新八の『浪士文久報国記事』には少し異なることが書いてあります。

 

島原廓角屋徳右衛門座敷を借り、新選組再会いたし、国事議論終えて大愉快。芸妓舞妓、島原総仕舞、午後六時頃に芹沢鴨、平山五郎、平間重助角屋を戻る。

 

土方歳三、沖田総司、御倉伊勢武は戻る。芹沢、平山、平間、土方四人にて、壬生にて八木源之丞宅を借り酒宴を相催す。

 

つまり、芹沢、平山、平間の三人は午後6時頃には角屋を出て壬生に戻り、その後、土方、沖田、御倉の三人も壬生へ戻り、土方が八木邸を訪れて芹沢らと一緒に酒宴を催したというのです。同じく永倉の『新選組顛末記』にも

 

やがて芹沢は平山、平間の両人を一座から連れ出して屯所へ帰り、自分は例の愛妾お梅を擁し、平山は桔梗屋の小栄、平間は輪違屋の糸里という美妓を相手としてのも直した。そこへ土方もやって来て、胸に秘策をしまってしきりに芹沢に酒を強ゆ。

 

と、同様に土方を加えて八木邸で酒宴を催したとしています。ちなみに『新選組始末記』(子母澤寛)でも八木邸に戻ってから飲み直したことが書かれています。永倉は暗殺事件には加わっていないものの、言うまでもなく近藤勇の「試衛館グループ」の主要メンバーの一人です。

 

『浪士文久報国記事』に「新選組(と)再会いたし」とあるので、永倉新八、おそらくはこの日まで何かの目的で京を離れていたと思われ、疲れが残っていたであろうことや、近藤グループが皆いなくなってしまっては、他の隊士が不審に思うのは必然なので、角屋に誰かが残っている必要があったことから永倉は芹澤暗殺に加わらなかったのだと思われます。とはいえその顛末に関しては、当然ながら後日仲間たちから聞いたはずなので、永倉の証言は信憑性が高いと思われます。

 

一方の八木為三郎ですが、現場に居合わせた人物ということで、当然ながらその証言の重要性は高いのですが、ただ、為三郎は当時十三歳くらいの少年です。そのことを考えると、為三郎の証言には少し疑問も抱かざるを得ないのです。