河野顕三(5) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

文久二年(1862)一月十五日の朝五つ(午前8時)、登城の合図を告げる太鼓が打ち鳴らされ、磐城平藩安藤家屋敷から老中安藤信正の一行が出て来ました。
 
安藤家の行列が坂下門へ向け歩みを進めていたところ、突然列の左側から銃声が発せられました。撃ったのは越後浪士の河本杜太郎でしたが、この銃弾は大きく外れて隊列の前を進んでいた旗本の馬に命中しました。
 
それに続いて列の右側、坂下門の下馬札のあたりに立っていた河野顕三が安藤信正の駕籠を狙って銃を撃ちました。しかし、寸前にこれに気づいた近習の松本練次郎が駕籠の前に立ちふさがって主君を守り、しかも銃弾は奇跡的に松本の股間をかすめるに留まったため、軽傷で済んだ松本は間もなく立ち上がって応戦し、河野と斬り合いになりました。
 
河本杜太郎と河野顕三の二人には不思議と共通点があります。二人とも医者の家柄であり、江戸への遊学経験があり、しかも両家とも南朝の功臣の末裔をもって任じていました。あるいは江戸での修学中など、どこかで二人は出会っていたのかも知れませんが、何しろこの日、二人とも死んでしまったので確かめようがありません。
 
それに、この安藤信正襲撃計画の中では決して中心的役割を担っていなかったはずの二人がどうして襲撃の先駆けとなったのかも謎というほかありません。そして、磐城平藩士たちに阻まれて水戸藩士の平山兵介、高畑総次郎、小田藤三郎らは安藤信正の駕籠に近づくことが出来ず、駕籠のそばに近づけたのは河本杜太郎と河野顕三の二人だけでした。
 
安藤信正を乗せた駕籠は急いで坂下門に向かいましたが、駕籠を担いでいた六尺が足をつまづかせたために前のめりになって急停止してしまいます。そのすきを突いて河野と河本が駕籠に刀を突き刺しました。
 
河本の刀は空を切りましたが、河野の刀は安藤の背中を刺しました。しかし傷は浅く、安藤は自ら駕籠を飛び出し、短刀をもって河野と数合斬り合います。
 
河野が打ち込んだ一撃を安藤がとっさにかわし、河野の刀は駕籠に食い込んでしまいました。そのわずかなすきを突いて、足軽の萬蔵が河野を槍で突き、河野は深手を負ってしまいます。それでもなお、河野は安藤を追いますが、家来たちに囲まれ、ついに闘死してしまいます。享年二十五歳。