粕谷新五郎(13) | またしちのブログ

またしちのブログ

幕末史などつれづれに…

元治元年(1864)六月六日、妻のつねとともに天狗党からの脱走を図ったものの捕まってしまい、小山宿の持宝寺に連れ戻されて殺害されてしまったと『藤岡屋日記』に記されている粕谷新五郎ですが、この話にも疑問点はあります。

 

そもそも粕谷新五郎の妻の名はたかであったはずで、つねではありません。しかも子息の親之介が書き残した『勤王殉国事蹟』にも、母が一緒に殺されたという記述はありません。あるいは内縁の妻、もしくは妾だったかとも考えられそうですが、『結城藩届書』にある、前日の夜に結城城下で捕らえられたという「浮浪の者の妻」がつねのことだとしたら、なぜ彼女がその夜のうちに釈放され、持宝寺まで赴くことが出来たのかも疑問です。

 

それに、そもそも粕谷新五郎という人物の経歴にも疑ってかかれば不思議な点はいくつもあります。薩摩藩邸に乗り込んだ時も、軟禁状態であったはずにも関わらず少なくとも一度は外出していたと思われる点、しかも水戸浪士たちが薩摩藩邸にしばらく預けられることに決まった後に、その変名の松延積之衛門が名簿から見られなくなってしまったこと。

 

更に浪士組が江戸へと帰って行った際に京都に残留しておきながら、やはりいつの間にか姿を消したこと。更に江戸に戻ってからのち、浪士組(新徴組)に合流するでなく、佐々木只三郎の世話になっていたらしいこと。

 

これらの点を考慮したところ、ひとつの可能性が浮かびあがりました。あくまでも「そういう可能性もある」という程度の話であり、「異説」の範疇ではあるのですが。

 

斎藤一研究の第一人者であった故赤間倭子先生は、当初、斎藤一は会津藩の隠し目付ではないかという説を唱えておられました。その隠し目付説は後にご自身で否定されたのですが、隠し目付というような役割があったとすれば、粕谷新五郎の一連の不思議な行動こそ、まさにそれにふさわしいとは考えられないでしょうか。

 

水戸脱藩浪士たちの暴走を止めるために、同志になりすまして天狗党や浪士組に送り込まれ、会話や行動などで過激な論や暴走を諌め、もう大丈夫だと判断したところでフッと姿を消したのではなかったでしょうか。

 

しかし最後の天狗党では暴走を止めきれないと判断し、脱走の手助けをするために派遣された妻役の女性とともに逃げ出したものの捕まって殺されてしまった。そうだとすれば、ご子孫に伝わる水戸藩の目付役をしていたという話にも、より納得が出来ます。

 

ちなみに、薩摩藩邸に共に入った同志の一人中村大三郎は、もと隠密同心であったことが『薩邸歎願書類』(万延元年八月二十六日)に記されています。少なくとも水戸藩内に隠密行動を任務とする部署があったことは間違いなさそうです。

 

では、もし粕谷新五郎が脱藩浪士の暴走を阻止するべく送り込まれた隠密(隠し目付)だったとしたら、彼を送り込んだのは人物は一体誰だったのでしょう。尊皇攘夷派の浪士たちが暴走して困るのは、対立する立場にあった保守派(諸生派)よりもむしろ彼らと志を同じくする人物だったはずです。

 

そう考えると有力なのが水戸藩執政(家老)の武田耕雲斎です。彼は元治元年(1864)四月に京都にいる一橋慶喜から「禁裏守護総督に任じられたので二、三百人の兵を引き連れて上京し、私を補佐せよ」と命じられています。

 

そんな時に同じ志を持つ天狗党が挙兵進軍してしまったわけで、耕雲斎は挙兵に反対しますが、やがて彼らの首領となり最期を共にすることになります。ひょっとしたら、懐刀の粕谷新五郎を差し向けて軽挙を諌め暴走を止めさせようとしたものの失敗に終わってしまい、何もかもあきらめて覚悟を決めてしまったのかも知れません。

 

そんなことを考えながら、ふと粕谷新五郎という名前を見ていると、あることに気が付きました。

「かすやしんごろう」

入れ替えてみると

「ごかろうすしんや(御家老筋也)」

 

さすがに考えすぎでしょうか。

 

(終)