粕谷新五郎(8) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

芹沢鴨・近藤勇らと共に京都に残留することになり、壬生浪士組の創設メンバーの一人となった粕谷新五郎ですが、永倉新八は彼を同志として認めていなかったようです。『浪士文久報国記事』には

 

十四人の姓名

芹沢鴨 近藤勇 新見錦 山南敬助 土方歳三 沖田総司 永倉新八 藤堂平助 原田左之助 平山五郎 野口健次 井上源三郎 斎藤一 平間重助

 

とあり、壬生浪士組の創設メンバーはこの14人であるとしている他、板橋の供養塔にも粕谷新五郎の名はなく、「同志連名記」にも最後に「遺稿中各記録より抜抄せる左記人名は、前掲総人名に対照するも不明なり。録してただここに参照に供す」として宮川信吉ら9人の隊士と並んで「水戸浪士 脱走 糟谷新五郎」とあります。

 

つまり粕谷新五郎ら10人の姓名は永倉新八本人が書き記したものではなく、他の諸史料と比較したところ彼らも隊士だったはずだと、のちに別の誰かが書き足したものだということがわかります。

 

なぜ永倉は粕谷新五郎を同志として認めなかったのでしょう。その理由として考えられることがひとつあります。それは、粕谷新五郎が京都に残った理由が芹沢鴨や近藤勇らとは違っていた可能性があることです。

 

では、粕谷新五郎が京都に残った理由は何かといいますと、それはおそらく病気の療養です。それを示している史料がいくつかあります。たとえば『密事会津往復留』という会津藩の史料では、浪士取扱の鵜殿鳩翁が殿内義雄・家里次郎の二人に「会津家々中へ引き渡し、同家差配に従う」ようにせよ、と取り締まりを命じた浪士一同として「京都方浪士」と「江戸浪士の内、ここ元へ相残り候」芹沢鴨以下の人名に続き、「外(ほか)」として

 

粕谷新五郎

上城順之助

鈴木長蔵

阿比留栄三郎

右の四人の者は病気につき、参らずの由。

 

とあり、粕谷、上城、鈴木、阿比留の4人は病気だったとしています。また壬生浪士組は三月二十二日に老中板倉勝静の宿所に押しかけ建白書を提出していますが、その中にもこの4人の名はありません。

 

そして、3日後の二十五日には会津藩士本多四郎(行忠)ら一行を壬生に迎えるのですが、本多の日記には、「関東浪士方」のいの一番に「水藩 粕谷新五郎」の名前を上げています。そして、この日記を最後に粕谷新五郎の名は壬生浪士組の記録から消えるのです。

 

推測するに、粕谷新五郎は京都に残留を希望したというよりも、病気により仕方なく浪士組の江戸帰還に同行出来なかっただけで、はじめから回復したら江戸に帰ることに決まっていた、ただそれだけのことだったのではないでしょうか。上城順之助や鈴木長蔵も同様であったかも知れません。二十五日の時点で会津藩士の接待に臨席出来るほど回復したから、これを機に旅立つことに決めたのかも知れません。

 

 

 

それと、これは推測の上に推測を重ねた話なのですが、芹沢鴨に関して草野剛三(浪士組道中目付)が「芹沢は病人だから残して行ったらよろしかろうと言うので、そう言うことにした」と証言していたり、『清河八郎』(小山松勝一郎)にも「もっとも、芹沢は病気がひどいので、京都に留まり治療したらよかろうと、水戸藩士山口徳之進たちの忠告があったので残ったのである」と同様の記述があるのは、同じ水戸の天狗の残党で、浪士組においても同役だった粕谷新五郎のことを芹沢鴨と取り違えた可能性もあるのではないでしょうか。少なくとも京都残留が決まった直後の芹沢鴨は意欲的に活動しているように思え、治療を要するような病身だったとは思えないのです。