粕谷新五郎(1) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

壬生浪士組(のちの新選組)結成時のメンバーである粕谷新五郎は、非常に多くの謎に包まれた人物です。

 

出自ははっきりしていて、ご子孫も健在なことが確認されているし、壬生浪士組やその前身である浪士組に加わっていたり、それまでの経歴もある程度はわかっているのですが、それでも「謎」なのです。

 

『勤王殉国事蹟』(明治7年/東京大学史料編纂所データベース)第36巻には、長男の親之介が記した粕谷新五郎の事跡が残されていますが、簡潔にまとめられていて、家族の名前と、小山宿(現・栃木県小山市)に埋葬されていた遺体を明治3年11月17日に実家の墓地に改葬したこと以外、特に注目するような話は書かれていません。

 

その『勤王殉国事蹟』によると、粕谷新五郎は文政三年(1806)八月十六日、常陸国那珂郡野口平村(現・茨城県常陸大宮市)に生まれました。祖父は藤右衛門宗氏、父は忠兵衛宗近、母は志牟(「しむ」もしくは「しん」か)といいます。後述しますが、粕谷家は足軽だったことを示唆する史料が数点あります。

 

新五郎の幼名は辰次郎で、諱(いみな)は宗伯といいますが、宗伯の「宗」は「むね」で良いとしても、「伯」の読みは「たか」「たけ」「とも」「のり」「みち」「お」などいくつもあり、ご子孫に読みが伝わっていないとすれば、特定するのは困難だと思われます。

 

また、妻の名はたかといい(『新選組全隊士録』)、親之介という息子がいました。少年時代から剣術を好んだと伝わっていますが、流派についてはよくわかっていないようです。また、前半生についてもよくわかっていませんが、安政の大獄以後の水戸藩の藩難に対し、天狗と呼ばれた尊皇攘夷激派の一員として活動することになります。

 

 

※.『勤王殉国事蹟』第36巻より粕谷新五郎宗伯事蹟