文久二年一月十五日、越後十日町の浪士河本杜太郎は坂下門外に老中安藤信正を襲い、返り討ちにあって討ち死にしてしまいます。その日、杜太郎がどういう容姿をしていたのか、当時の史料に残されています。
『脇坂家書類』
紺浅黄横竪縞紬小袖、下着胴竪絞り縞絹廻り茶瀧縞地半浅黄木綿、鳴滝絞り茶小倉袴、帯刀鞘ばかり短刀を帯び、抜刀を持つ
『文久壬戌秘記』
浅黄木綿肌着、藍竪縞紬綿入れ合着、同弁慶紬綿入れ、薄紅茶小倉蝉なし馬乗り袴、鮫鞘九寸五分脇差、書類、紺足袋
残念ながら着物に関しては勉強不足で、これらが具体的にどういう着物を指すのかまではわかりませんが、おおむね
・薄い藍色(紺浅黄も薄い藍色のこと)の綿入れ小袖
・浅黄色の肌着
・茶色の馬乗り小倉袴
・紺色の足袋
・鮫地(少し緑がかった濃灰色)の鞘
といったものだったようです。また『脇坂家書類』では刀を持ったまま死んでいたとされています。
この中で気になるのは竪(たて)横縞の紬の小袖です。というのも、この「縦横縞」というキーワードで検索したところ、出てきたのが杜太郎の出身地十日町で江戸時代後期から生産されていたという十日町絣(かすり)なのです。
杜太郎自身は医学を学ぶために江戸へ出てきたにも関わらず、親からの仕送りを剣術修行につぎ込んでしまい、非常に貧しい生活を余儀なくされていました。当然江戸に出て来た時にはこのような侍の格好ではなかったはずなので、その後に購入したものと思われますが、杜太郎自身には良い着物を買う余裕などなかったはずです。
これは全く僕の想像なのですが、あるいは久坂玄瑞と一緒に京へ上り、公家と面会するなど“いっぱしの志士”としていよいよ活動するという時に、みすぼらしい格好で恥をかかないようにと故郷の両親が送ったものではなかったでしょうか。
また、頭髪については共に討死した同志のうち、三嶋三郎(河野顕三)は惣髪、細谷忠斎(平山兵介)は坊主頭であったという但し書きが『脇坂家書類』にあるため、特に記載のない杜太郎を含む他の4人は、当時は一般的であった月代に髷というヘアスタイルだったと思われます。