河本杜太郎(十二)川辺佐次衛門の切腹 | またしちのブログ

またしちのブログ

幕末史などつれづれに…

文久二年一月十五日の朝五つ(午前8時)頃、江戸城坂下門外において河本杜太郎ら浪士が老中安藤信正の行列を襲い、返り討ちにあって全員が討ち死にを遂げましたが、それから4時間後の昼九つ時(正午)頃、外桜田の長州藩邸に一人の男が駆け込んで来ました。

 

桂小五郎を訪ねてきたという男は、水戸脱藩浪士の内田萬之助と名乗りましたが、これは変名で、実は水戸脱藩の川辺佐次衛門元善という人物でした。川辺は茨城郡細谷村住の家禄二十四俵の郷士でしたが、安政の大獄で烈公こと徳川斉昭が蟄居処分となると、これに抗議したことが罪に問われて閉門となり、のち脱藩して江戸と水戸を往復しつつ尊王攘夷派として活動していました。

 

あいにく桂小五郎は朝から麻布の藩邸に公務で出かけていて留守だったので、代わりに応接したのが他でもない、のちに日本国初代総理大臣となる伊藤博文(当時は俊輔)でした。伊藤俊輔は桂小五郎の家来だったのです。

 

その伊藤俊輔が翌十六日に事の顛末を陳述した『伊藤俊輔口書』が東京大学史料編纂所データベースに残っていますが、それによると川辺が「小五郎様にお会いしたい」というので、「ただ今、主用によって留守にしている」と答えると、どうしても桂本人に申し述べたいことがあるというので、外桜田藩邸内の武術稽古場である有備館に招き入れ、食事や酒を出して待ってもらうことにしました。

 

暮れ六つ時(午後6時)頃になって、ようやく桂が帰ってきたので「内田萬之助という水戸脱藩浪士が訪ねて来ています」と知らせると、桂はその名に聞き覚えがなく、「如何様の人物に候や(どういう人物なんだ)」と伊藤に尋ねたので本人から聞いた話を伝えると、桂は休みもとらずにそのまま有備館に入って川辺と会いました。川辺は水戸浪人内田萬之助と名乗り

 

今朝、御曲輪内において狼藉に及び党類に候ところ、機会を失い遺憾少なからず、途中に於いて自殺致し候は心外の儀につき、兼ねて桂小五郎姓名承り及びおり候につき、死後の仕舞をば相頼み申したく罷り越し候。

 ~『長州藩士中村九郎兵衛書翰』(文久二年一月十九日)

 

つまり、「自分は坂下門外の変の襲撃グループの一員であったが、(安藤信正暗殺の)機会を失ってしまったことが残念でならない。(逃亡の)途中で自殺するのは本意ではなかったので、かねてからお名前を存じていた桂小五郎殿に(自分の)死後の始末を頼みたいと思い訪ねて参りました」と申し述べたといいます。また老母への形見として金十両、同じく妻(舩幡氏)と息子(幼名不明。成人後川辺元定を名乗る)のために金五両にそれぞれ手紙を添えて桂に託しました。

 

何しろ老中を暗殺に失敗して逃亡した人物なので、さすがに自分の意思だけでは決めあぐねたのか、桂は川辺を待たせた上で藩邸に入り重役たちと協議しました。そして1時間後の夜六つ半時(午後7時)頃、再び有備館に入ったところ、川辺はすでに自殺していました。

 

史料『内田萬之助自殺一件』によれば川辺の遺体には

 

・下腹部に長さ一寸五分、幅五分程、深さ一寸五分ほどの傷(切腹のよるもの)

 

の他に

 

・右の喉より左の喉にかけ長さ五寸ほど、幅二寸ほど、深さ一寸五分ほど脇差で貫通し、切っ先五分ほどが左の喉から露出

 

・左の耳下から喉にかけて長さ五寸ほど、深さ一寸五分ほどの切り傷

 

・右腹部に二ヶ所「少々充(あて)かすり傷」

 

があったといいます。致命傷となったのは喉を貫通した傷であったと思われます。つまり切腹したものの死に切れず、喉を切ったのち更に刺してようやく息絶えたということになると思われます。

 

右腹部に二ヶ所あったという「少々充かすり傷」は、腹を切る前か後に、腹を刺そうとしながら出来なかった、いわゆる「ためらい傷」であったかも知れません。こうしたことから、川辺はおそらく桂に自殺を思いとどまるよう説得されたのではないかと思われます。しかし意思は変わらなかったので、桂が席を外した間に自殺してしまったのでしょう。

 

ちなみに川辺の佩刀は二尺二寸五分の無銘の打刀で、「水戸住玉川美久」の銘が彫られた小柄がついていました。また、自らの喉に突き刺した脇差は一尺一寸ほどで、こちらには「徳兼」の銘があったと伝わります。調べたところ幕末の水戸の刀工に徳兼(のりかね)がおり、「常陸国水戸白籏住徳兼作之」などの銘を切ったそうなので、この水戸の徳兼だったと思われます。

 

長州藩士兼重譲蔵の手記に、「平山兵介らと一緒に安藤信正の行列が登城するのを待っていたが、時間が早すぎたので一旦町に出て時間を潰し、帰ってきたところ既に同志は皆討ち死にしていた」と川辺本人が兼重に語ったように書かれ、これが現在まで定説となっているようですが、長州藩の史料によると、兼重は川辺の自殺後に事の顛末の報告を受けた重役の一人であって、本人と直接言葉を交わしたというのは事実ではないように思われます。また、これから老中を暗殺しようとするのに、時間が早かったからと一人だけ現場を離れるというのも不自然な話のように思われます。

 

また、事件時に逃亡した浪士が二、三人いたとする目撃談もあることから、川辺は暗殺は不可能と判断し、ここで全員が死んでしまうよりも一旦脱して自分たちの思いを誰かに伝えておくべきだと考え、長州藩邸に駆け込んだと考えるべきではないでしょうか。

 

ただ、それにしても敵前逃亡のそしりを後世に受けるのは不憫なので、襲撃に遅れたという話を長州藩の方で創作したのではなかったでしょうか。

 

その後、川辺佐次衛門の遺体は三日後の十八日になって長州藩からの申し立てによって幕府に引き取られ、町奉行黒川備中守の役宅に運ばれました。桂小五郎は伊藤俊輔を引き連れて黒川備中守役宅に押しかけ、「自分は内田萬之助殿に死後の始末を頼まれた。このまま罪人として奉行所に遺体を引き渡してしまえば武士道が立たないので遺体を引き取らせてほしい」と訴えましたが、無論聞き入れられるはずもありません。二人は一晩中怒鳴り散らして抗議し続けたそうですが、翌朝になってようやくあきらめて帰って行ったといいます。後日、奉行所から桂に対しては急度お叱り、つまり厳重注意の処分が、伊藤に対してはお叱りの処分が下されました。

 

また、事件後に八州廻りの手先の大足村の市郎と竹原村の常吉が探索したところによると、事件前の某日、日光街道石橋宿において、討ち死にした河本杜太郎、平山兵介、河野顕三、高畑総次郎、黒澤五郎、小田藤三郎の6人に川辺佐次衛門を足した7人に加え、栗田太郎こと横田藤太郎、小山成吉こと小山長兵衛、三宅六郎こと出嶋教介という3人の男が行動を共にしていたといいます。

 

このうち、横田藤太郎は大橋訥庵門下で、事件直前の一月十二日に大橋とともに逮捕され、のちに獄死しています。また小山成吉こと小山長兵衛ですが、こちらも同じく大橋門下で一緒に逮捕された小山鼎吉のことではないかと思われます。また、もうひとりの出嶋教介は同じく大橋門下で事件前に逮捕された児島強介でしょう。

 

 

 

 

 

 

※.桂小五郎と伊藤俊輔