河本杜太郎(十一)安藤信正の受難 | またしちのブログ

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河本杜太郎ら浪士の襲撃を受けた安藤信正は坂下門に入り難を逃れると、すぐさま門番所へと駆け込みました。そして、ただちにもう一人の老中久世広周に使いを走らせ、事件を報せ対応を要請しました。

 

信正の背中は血まみれになっていました。それでも信正は「膏薬でも塗っておけばよろしい」と気丈に振る舞いましたが、やはりそれではまずかろうと、奥医師の伊東玄朴、戸塚静海を呼び寄せて診断に当たらせたところ、背中の傷は深さ一寸三分(39mm)、長さ一寸二分(36mm)で、背骨にも損傷があったといいます。早速縫合手術が行われ、二、三針縫ったようです。

 

他に顔などに数か所の傷を負っていましたが、そのうち右眉上の傷は駕籠を下りた際にどこかにぶつけたものだといいます。また河野顕三の切っ先を、すんでのところでかわした時に鼻の頭に切り傷を負っていました。

 

結局、この日の職務はすべて取りやめとなりましたが、手当が終わると信正は自ら立ち上がって歩いて屋敷まで帰って行き、翌日からは通常の職務をこなしました。

 

また家臣のうち、主君信正を守ってよく働いた者として

 

【松本練三郎】19歳

御近習番駕籠脇役。河野の銃弾で両股を負傷するが、ただちに立ち上がって奮闘する。浪士一人(河野顕三か)を討ち取ったとされる。両股の他、頭部にも一ヶ所傷を負うがいずれも軽傷であり、数日後には全快した。名前は「練三郎」の他、「錬三郎」「連三郎」と書いたものもあり。

 

【小薬平次郎】22歳

小納戸役・刀番。主君信正に抱きつき、河本杜太郎の斬撃を身を挺して防いだ。頭から背中にかけて深手も一命は取り留める。

 

【原田惣兵衛】

御警固供元締。河本杜太郎と斬り合い左耳から目にかけて深手を負う。即死したものと思われたが、同日夕方になって突然息を吹き替えし「殿をお守りせねば」と立ち上がろうとしたが、周りの者に事情を聞いて落ち着いたという。

 

【萬蔵】

押方(中間小者取締)の足軽。姓は藤田、師岡の二説あり。主君信正に襲いかかった河野を槍で突き致命傷を負わせた。頭部に軽傷。

 

【上坂大五郎】

大小姓増供。浪士一人を討ち取り、腕に浅手。

 

【村上鋎次郎】20歳

大小姓。浪士一人を討ち取り、自身は無傷。

 

【村上秀次】

大小姓。よく働き軽傷。

 

【林録次郎】

役目不詳。無傷にて浪士一人討ち取る。

 

【友田六蔵】

警衛御書簡方。頭から背中にかけ斬られるも軽傷。

 

【山田彦八】

警衛大目付。浪士一人討ち取る。指に手傷。

 

【横山森之助】

中間頭。頬と手にかすり傷。浪士一人を討ち取る。

 

【高澤幸之丞】

姓は高津とも。御徒士。よく働くも頭部に深手。

 

【斎藤勇之助】

御徒士。よく働くも頭部二ヶ所に深手。

 

【冨田弥三郎】

御徒士。よく働くも深手を負い、数日後に死亡とされる。

 

【伊東藤右衛門】

御徒士目付。無傷にて浪士二人を討ち取る。

 

【久栖映次郎】

姓は「くすみ」と読む。よく働き無傷。

 

【那須松之介】

よく働き無傷。

 

【植竹大蔵】

よく働き無傷。

 

【井上源之介】

よく働き無傷。

 

【塙山貫二】

よく働き無傷。

 

 

史料に出てくるのはこれらの人々です。討ち取った浪士の数が9から10人になってしまい実情と合わなくなってしまいますが、このままにしておきます。ちなみに伊東藤右衛門は『脇坂家書類』にのみ記載されている人物で、伊東姓で浪士2人を討ち取ったことからいかにも剣客らしいのですが、そういえば剣の腕を買われて取り立てられながらも、河本杜太郎の一撃に恐れをなして逃げ出した剣客というのがいました。小説にするならばその役にうってつけになりそうです。2人斬ったというのも、このままではマズいと浪士の遺体に斬りつけたという逸話に符合しそうですが、無論何の証拠があるわけでもなく、確かめようがありません。

 

安藤家は信正自ら浪士と斬り合っただけでなく、最初に駆けつけてきた河本杜太郎・河野顕三の二人以外、浪士を主君信正に寄せつけず、襲撃を防ぎ切ったのは見事というべきなのですが、世間の目は非常に厳しいものがありました。

 

事件直後から安藤信正に対して「必死に戦う家来を置き去りにして一人坂下門に逃げ込んだ」「逃げる途中で何度も足をもつらせ転倒した」などの悪評が跡を絶たず、これらは現在まで事実として認知されてしまっています。

 

また、ついには屋敷の門前に、「御老中」にかけて「今度は首をとろうじゅう」などと貼り紙され、更には以前から取り沙汰されていた外国との癒着、収賄の噂も、むしろ事件を機に更に大きくなってしまったことなどから、ついに老中を罷免されてしまいます。

 

久世広周も連座する形で失脚し、幕府は結果として公武合体政策の旗振り役だった二人を自らの手で引きずり下ろしてしまうことになってしまいました。このことは和宮降嫁を幕府の陰謀と信じて疑わなかった尊王攘夷派を勢いづかせる結果となり、幕府はより苦しい立場に自らを追い込んでしまうことになるのです。

 

 

※.明治初期の坂下門。