河本杜太郎(九)坂下門外の変 | またしちのブログ

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文久二年(1862)一月十五日の朝五つ時、登城すべく西の丸坂下門に向かっていた安藤対馬守信正の行列に、一発の銃声を合図に突如浪士たちが襲かかりました。その人数は7,8人ほどだったとされています。

 

この一発目の銃弾を撃ったのはおそらく河本杜太郎だと思われます。しかし前回お話したとおり、銃弾は安藤信正の乗る駕籠は狙わずに、安藤家の行列の前を進んでいた旗本某の乗っていた馬に当たりました。そして更に行列の左右から二発の銃弾が撃ち込まれました。

 

このうち、左から撃ったのが誰だったのかは全くわかりません。銃弾もどこに飛んでいったのかわかっていません。一方、右から撃ったのは三島三郎こと河野顕三。河野は下野国河内郡吉田(現・栃木県下野市)の医者で大橋訥庵の同志でしたが、この日死んだ6人のうち1人だけ総髪であり、宗十郎頭巾をかぶって顔を隠していました。ちなみに、頭巾をかぶっていたというのは、いかにも怪しい格好のように思えますが、これは時代劇の影響であって、本来頭巾は防寒具として冬の季節なら男女関係なく使用していたものです。

 

その河野顕三は安藤信正の駕籠を狙って短筒を撃ち放ちましたが、駕籠脇に控えていた近習の松本練三郎がとっさに盾になって防いだので、弾を受けた松本練三郎はその場に倒れました。しかし、奇跡的に弾丸は練三郎の股の間を抜け、両ももに軽傷を負うだけで済みました。河野顕三が駆け寄ってくると、練三郎は気を取り直して立ち上がり、河野と斬り合いました。

 

この松本練三郎、御用人稲垣善右衛門の次男で若干19歳の若者でしたが、よほど腕が立ったのか、特に抜擢されて主君信正の駕籠脇を守る大役を仰せつかっていました。

 

一方、駕籠の左側、みかん売りの屋台の方から駆けてきたのは河本杜太郎。杜太郎は駕籠の左脇に従えていた御警固元締めの原田惣兵衛と数合打ち合ったのちに原田を倒しました。原田は左のこめかみから目にかけてざっくりと斬られ、その場に倒れたままピクリとも動かなくなりました。

 

杜太郎は更に駕籠の左脇に控えていたもうひとりの者に斬りかかりましたが、一撃で頭を打たれたこの侍は、刀も抜かずに逃げ出して安藤屋敷に駆け込んでしまいました。この侍、実は剣の腕を買われて取り立てられたばかりだったといいますが、その後どういう処分が下されたのかは不明です。

 

更に浅田儀助こと水戸脱藩小田藤三郎、細谷忠斎こと同じく水戸脱藩の平山兵介、相田千之允こと常州久慈川の郷士高畑総次郎らが駕籠めがけて駆け寄りますが、安藤の家来にたちまち囲まれてしまい、斬り合いとなりました。

 

大雪だった桜田門外の変の時と違い、この日は朝から快晴でした。しかも尊王攘夷派浪士たちによる老中安藤襲撃の噂は前々から聞こえていたので、安藤家の家臣たちにも十分な覚悟が出来ており、しかも杜太郎が放ったと思われる一発目の銃弾によって浪士の襲撃を察知出来たため、駕籠周りの家臣たちは抜刀して備えることが出来たといいます。

 

その様子を見て恐れをなしたのか、2,3人の浪士が戦いもせずに身を翻して逃走したことが『弘前藩士比良野某書翰』など複数の史料に書かれています。

 

 

 

 

※.『維新戦争物語』(菊池寛/昭和14年)より。