「明智藪、見に来はったんですか?」
ありがたい事に、あちらの方から声をかけていただきました。「そうです」と答えると、「僕らは地元の者だから」と現地を案内していただいたばかりでなく、地元に伝わっているお話などを教えていただく事が出来ました。
さて、明智光秀の最期というと、山崎の戦いで羽柴(豊臣)秀吉の軍に敗れ、居城である近江坂本城へ向けて落ち延びる途中、人里離れた林(藪)の中の一本道で、隠れていた農民などに襲われて、竹槍で刺されて死亡したというのが通説で、ドラマなどでは大同小異で、ほぼそのように描かれていると思われます。
が、地元の言い伝えはだいぶ違うようです。光秀を襲ったのは農民ではなく、地元小栗栖の有力者、飯田氏の一党だというのです。
小栗栖の飯田氏は信州伊那郡飯田(現・長野県飯田市)の出で、足利尊氏に従って上洛した飯田越中守家秀の次男永盛がこの地に土着したのがはじまりです。永盛はその後、醍醐寺(伏見区醍醐東大路)の満済准后(まんさいじゅごう。醍醐寺中興の祖とされる)の坊官になりましたが、子孫は還俗し、小栗栖八幡宮の神主を務めながら、在地領主として君臨していました。
※.小栗栖八幡宮(飯田氏居館跡)
その飯田氏について、織田信長の家臣であったとする記述が散見されますが、実際は微妙に違ったようで、信長に従ってはいたが家来ではなかったというのが実際のところであったようです。つまり明智光秀を討った当時も誰かに仕官していたわけではなく、在地領主、平たく言えば土豪であったという事になります。
それだけに、飯田氏にとって光秀を討つ事は、武将として取り立てられる大きなチャンスだったのかも知れませんが、織田家にしろ秀吉にしろ、光秀を討ち果たした事に対して何かしらの恩賞を授かったという記録は全く残っておらず、手柄は事実上なかった事になってしまっているのだそうです。
その一方、太田牛一の『旧記』などで光秀は名もなき農民の落ち武者狩りで、竹槍で突き刺されて死んだ事なっていますが、地元の方によれば、これは主殺しの謀反人光秀の死をよりみじめに描く事で、その光秀を破った天下人秀吉のカリスマ性をより際立たせようとしたのではないか。だからこそ飯田氏への恩賞も無視されてしまったのだろうという事でした。
たしかにそれは一理あると思いますが、だとすれば、その天下取りにあと一歩まで迫りながらのみじめな死に様が後の世に人々の同情を誘い、光秀を人気者にしたというのも皮肉な話ではあります。
飯田氏の関係で、もうひとつ興味深いものがあります。それは明智藪のすぐ近くにあった、この小高い丘です。
写真が暗いのでわかりづらいかも知れませんが、伐採された竹の根っこが、まるで卒塔婆のように立ち並んでいたので、見た時は一瞬ゾッとしましたが、明らかに人が土を盛って作った人工の丘です。地元の方に尋ねると、「これは小栗栖城の跡なんです」との事でした。ちなみに小栗栖砦とも呼ばれているそうです。
小栗栖城に関しては上記の小栗栖八幡宮の事を小栗栖城跡と呼ぶ場合が多いようですが、地元の方によれば、こちらが本当の小栗栖城だとの事でした。ただ、これはあくまで僕の意見ですが、両者が数百メートルしか離れていない事や、城館があったにしては規模が小さい事を考えると、八幡宮と砦は本丸と出丸のような関係だったのではないでしょうか。
いずれにしろ、光秀が襲われた明智藪はこの城(砦)のすぐそばにあります。その城砦が当時も使われていたのかは史料がなく、よくわかっていないそうですが、少なくとも土塁は残っていたわけで、光秀がここにやって来たのは、単に通り過ぎるためだったとは思えません。
余談ながら、小栗栖は地名としては「おぐりす」と読みますが、城は「おぐるすじょう」と呼ばれているそうです。「来栖」とつくのでキリシタンとの関係を想像しましたが、小栗栖という地名は奈良時代からあるもので、キリスト教とはまったく関係ないとの事。光秀の娘・細川ガラシャとの因縁などを一瞬妄想してしまいましたが・・・。また、大昔には「おぐろす」村だったのだとか。