ぜんざい屋事件(四) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

それは元治二年(1865。四月七日に慶応に改元)の正月八日、旧暦の節分の日のことでした。

 

その夜、濱田正弥(田中光顕)、橋本鉄猪(大橋慎三)、那須盛馬(片岡利和)の三人は、同志の中沼孝太郎(※1)と会うために、かつての潜伏先である道頓堀の鳥毛屋へ出かけていました。

 

そのため、松屋町のぜんざい屋こと石藏屋には主人本多大内蔵とその妻おれん、母のお静、そして大利鼎吉の4人だけが残っていたといいます。

 

が、ここでひとつの疑問があります。田中光顕が彼らの同志としてその名を挙げたもうひとりの人物、池大六については、どういうわけか田中自身の回顧録をはじめ土佐藩側の記録から、この日の去就が抜け落ちているのです。

 

池はその後、山中敬蔵(敬三とも。維新後、更に安敬と改名)と名を変え、田中、大橋、那須とともに陸援隊に参加しているので、同志から離脱したとは思えません。しかし、田中の回顧録ではこの時の同志を田中、大橋、那須、大利の4人としているので、何か事情あって一時的に離れていたのかも知れませんが、池がこの日何をしていたかについては謎というしかありません。

 

一方その頃、南堀江の谷万太郎の道場に谷川辰吉という男が居候していました。谷川は備中(現在の岡山県)倉敷の出身で、本名を和栗吉次郎(わぐり/わくり きちじろう)といい、剣を美作国(現・岡山県)津山藩剣術指南役で神道無念流の剣客・井汲唯一(いくみ ただいち)に学びましたが、前年(元治元年-1864)十二月十八日、倉敷の豪商・大橋敬之助(※2)の呼びかけにより、藩の蔵米を他藩に横流ししていた下津井屋を同志一党とともに襲撃し、主人親子の首を刎ねて川に投げ捨て、土蔵に放火して逃亡、大坂に逃げ込んでいました。

 

おそらくは、その頃美作国あたりを遊説して同志を集めていた井原応輔、島浪間、千屋金策らに誘われ、大坂に行って訪ねるよう指示されたのでしょうが、谷川辰吉は当初、ぜんざい屋に潜伏していました。しかし、彼ら土佐脱藩浪士たちの大坂城焼き討ち計画には賛同出来なかったため、ぜんざい屋を抜け出し、その後、旧知の間柄であった谷兄弟を頼って万太郎の道場へと転がり込んだようです。

 

その谷川辰吉にもたらされた情報により、谷万太郎は兄・三十郎と門弟の正木直太郎、そして一度は新選組を脱走したものの、隊に復することを望んで万太郎を頼って来ていた高野(阿部)十郎の3人とともにぜんざい屋を襲撃するべく、松屋町に向かったのでした。

 

(「大利鼎吉」から「ぜんざい屋事件」に改題しました。あしからず)

 

 

 

※1.中沼孝太郎…京都の人。学習院講師で儒学者・中沼了三の息子。中沼了三は烏丸通竹屋町下るに私塾を開き、中岡慎太郎や松田重助(肥後)、西郷従道らの師であったほか、薩摩藩士や十津川郷士とも親交が深く、倒幕運動の精神的支柱のような存在であった。

 

※2.大橋敬之助…のちに立石孫一郎と改名して長州第二奇兵隊の事実上のリーダーとなるが、兵を率いて脱走し、倉敷代官所と浅尾藩陣屋を次々と襲撃する。長州に逃げ帰ったのち長州藩の手で暗殺された。

 

 

※.画像はイメージです。