ぜんざい屋事件(三) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

濱田辰弥(のちの田中光顕)ら土佐脱藩浪士たちが進めていた大阪城焼き討ち計画は、故郷土佐で獄中にあった土佐勤王党首領武市半平太の耳にも入り、獄外にいる同志へ送った密書の中に「大坂一挙もいかが候や。只々一日も早くあれかしと祈ることに御座候」と、その成功を祈るとする言葉がある一方、別の手紙では「大坂一挙の事、すこぶる急務に御座候えども、とても事は得挙げ申すまじ」、つまり「大坂城焼き討ちはただちに実行されなければならないが、とても成功するとは思えない」と、本音を吐露してもいます。

 

その頃、ぜんざい屋こと石藏屋のあった松屋町から真西に歩いて30分ほどのところにある南堀江町二丁目に、直心流剣術と種田流槍術の道場を構えている男がいました。元備中松山藩の旗奉行、谷三治郎の次男、谷万太郎です。

 

万太郎には兄三十郎と、13歳年の離れた弟の昌武がいましたが、兄の三十郎(もしくは万太郎本人)が何らかの不祥事をしでかし、谷家は御家断絶となってしまいます。そうして父祖の地を追われた万太郎は、大坂へと流れて来るのです。

 

大坂にたどり着いた万太郎は、縁あって岩田文硯(いわた ぶんけん)という人物のもとに身を寄せることになります。岩田文硯は医者で、中山大納言の侍医を務めていましたが、その一方で、武芸をたしなむ若者を自宅に住まわせて世話をしていました。

 

万太郎もそんな中の一人だったのですが、文硯は万太郎のことをよほど気に入ったらしく、娘のスエを万太郎に嫁がせ、南堀江町二丁目にあった酒屋の納屋を借り上げて道場を開かせたのです。また、娘夫婦のために北新町一丁目に住居を用意までしたのでした。

 

文久三年(1863)、京都に壬生浪士組(のちの新選組)が誕生します。谷三兄弟は翌元治元年六月の池田屋事件までの間に入隊し、兄弟揃って事件に参加、万太郎はよほど活躍したらしく、事件後二十両の報奨金を支給されています。

 

しかし、万太郎は新選組加入後も南堀江町の道場経営を続けていたようです。おそらくは、新選組の隊務にはほとんど関わっていなかったと思われます。そのため、正規な隊士ではありましたが実質的には新選組の外部協力者と見るべきなのかも知れません。

 

 

 

 

 

顔デカすぎて面白い感じになってしまいましたが、これはこれで「万太郎感」がある(笑)のでこのままにします。袖章もシャレなのであまり気にしないで下さい。

・・・僕のサムネイルにしようかな(笑)