野々村勘九郎(四) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

元治元年(1864)五月、野々村勘九郎は幕府への陳情の使者として下関を発ちましたが、当然ながら旅の途中で京に立ち寄ることになります。いや、立ち寄るというより、当時の情勢を考えれば、むしろ京において様々な立場の人々と折衝することこそが、もっとも重要な役目だったのかも知れません。

 

ちなみに、グーグルマップで調べたところ、下関から京都までは徒歩で4日と7時間かかると出ましたが、これはあくまでずっと歩き続けたとしての計算であって、実際には日が暮れる頃には宿に入って翌朝まで宿泊したし、道中、日に何度か休憩もとったでしょうから、おそらく実際は7、8日もしくはそれ以上かかったものと思います。

 

そもそも、この使者の話が書かれている『贈位内申書』には「元治元年五月使命を帯び陳情表を幕府に奉ぜんとす」とあって、五月のいつ頃のことなのか不明なのですが、おそらく五月中には京に入ったのではないでしょうか。

 

京に入った野々村勘九郎は、長府藩の京都藩邸に入った・・・はずなのですが、この長府藩京都藩邸というのが、実は結構ナゾなのです。

 

ウィキペディア「長府藩」には「京都藩邸は三条通下立売油小路に、大阪藩邸は中之島にあった」とあるのですが、この京都藩邸の場所を表す表記のうち、三条通と下立売通はともに東西に走る通りです。が、通りの数でいえば9個、距離でいうと約1.3kmほども離れており、「三条通下立売」という住所は成立しません。

 

そこで古地図をいろいろ調べてみたところ、文久年間に作成された「京都指掌図」及び「文久京都図」では下立売通の北側(京都独自の言い方で「上ル」)で油小路通のひとつ東側の小川通に接する区間にそれぞれ「モウリ」「毛利」と書かれており、他に該当する場所もないことから、おそらくこの区画が長府藩京都藩邸だったものと思われます。

 

※.「京都指掌図」より。「モウリ」とあるのが長府藩邸と思われる。ちなみに赤く塗られている部分は禁門の変で類焼した部分をあとで書き足したもの。

 

 

ところが、その後作成された「京都大火略図」(元治元年)や「改正京都御絵図細見」(慶応四年)などでは、この区画は空白になっています。

 

※.「改正京都御絵図細見」(慶応四年)より。中津(奥平家)・因州(鳥取池田家)・丸亀など周囲の藩邸は表記されているのに、中津のふたつ右隣にあるはずの「毛利」だけ表記されていない。

 

 

しかも、維新後の明治2年に作成された「京都町組図略」ではこの区画に再び「毛利」と書かれているのです。

 

※.「京都町組図略」(明治2年)より。京都府庁の隣に「毛利」がある。

 

 

そうした古地図の表記をもとにして、ひとつの推測が成り立つと思われます。それは長府藩京都藩邸は元治元年から明治維新までの間、閉鎖もしくは取り壊されたのではないかというものです。

 

宗家である長州藩や、同じ支藩である岩国の藩邸(ともに四条河原町にあった)は禁門の変以降も壊されることなく維持されたのに、なぜ長府藩邸だけ取り壊されなければならないのか、当然不思議に思われると思いますが、その理由のヒントが実は上記の古地図に示されています。

 

明治2年の「京都町組図略」で京都府庁と兵部省兵隊屯所となっている大きな二つの区画は、その上の「改正京都御絵図細見」(慶応四年)では何も書かれていませんが、実はこの場所、元治元年一月より金戒光明寺から移ってきた京都守護職屋敷があった場所なのです。

 

 

※.京都守護職上屋敷跡(京都府庁)上京区下立売新町西入藪之内町

 

つまり、会津藩(京都守護職)と長州の支藩である長府藩の屋敷が細い西洞院通をはさんで並んで建つことになる・・・のですが、それではいろいろと不味いだろうということで、長府藩邸は取り壊されてしまったのではないでしょうか。

 

 

※.長府藩邸(と推定される)毛利家屋敷跡(現・京都府自治会館)。右の樹木は府庁(守護職屋敷)の敷地。

 

 

更に想像をたくましくすれば、ほぼ同時期に一方が建設され、一方が取り壊されたのだとしたら、江戸時代の「ものを無駄にしない」という考え方からして、取り壊された長府藩邸の資材が守護職屋敷に流用された可能性もあるのではないでしょうか。

 

これから長州藩の冤罪をそそぎ、その名誉を回復するべく運動しなければならないと意気込んで京都に乗り込んだ野々村勘九郎が、目の前で長府藩邸が取り壊され、その資材が隣に建てられようとしている、憎っくき会津藩の屋敷に使われているのを見たとしたら、その怒りたるや如何ほどのものだったでしょう。