粟田口刑場で処刑された受刑者の遺体ですが、京都府歴史資料館の職員の方にお話をうかがったところ、ほとんどの場合は処刑場内にあった穴に放り込んで埋めていたのだそうです。
実をいいますと、『荻野家文書』の3点の絵図面のうち、「出来絵図」に描かれた穴(坑穴)が他の2点と比べて極端に小さかったのですが、そのことからも「出来絵図」は処刑場が完成した際に描かれた絵図面で、その後、長い年月を経て穴がどんどん広げられていったのだろうと思われます。
ただ、『荻野家文書』にはもう1点絵図面があるのですが、それは粟田口刑場ではなく、岡崎の某地を描いたものでした。
その絵図面にも同様の穴が描かれていることから、そこも粟田口刑場で処刑された遺体を埋葬する場所であったと思われます。場所からみて、たとえば刀剣の試し切りであったり、あるいは医療関係に利用された遺体をそこへ埋葬していたのではなかも知れませんが、絵図面には特に説明書きのようなものはありませんでした。
また、同地は比較的わかりやすい特色があるため、場所を比定するのはわりと容易でしたが、現在その地は上手い具合に一般人が立ち入ることが出来ないようになっています。おそらくは歴史的背景に配慮してそうしているのでしょう。
一方、獄門台などに関しては刑場のどの場所にあったのか、絵図面だけでは特定は出来ませんでした。ただ、処刑場が高台に設けられていたことや、そもそも人目に晒して見せしめにするのが磔・獄門の主旨であったことを考えると、刑場下の街道沿いにあったと考えるのが妥当なのではないかと思われます。
下の写真は峠を山科側に少し下がったところにある高台です。二基の碑が立っています。
上ってみました。ちなみにこの高台に上がってみたのは2018年のはなしで、以下の写真はすべてその時に撮影したものです。現在は地盤が緩んでいるのか立入禁止になっているようです。
小さい方、道路に横向きに立っている萬霊供養塔。裏面には
大正元年十二月建之
京津電気鉄道株式会社并社員及用達商人者
と刻まれています。
粟田口刑場は明治維新後に廃止され、明治5年(1872)には舎密局(せいみきょく)の願いによりこの地に粟田口解剖場が設置されました。この碑は処刑場で死んだ受刑者に加え、解剖場で解剖された刑死者の霊を弔う意味で建てられたものと思われます。
もうひとつの道路と平行に立っているのがこちらの碑です。
表面に
知恩院門跡
南無阿弥陀佛 霊瑞
とあります。知恩院門跡とあることから、霊瑞とは知恩院第七十七世・日野霊瑞(1818-1896)のことと思われます。
裏面には
為日岡字夷谷屠獣及怨○(「宗」へんに「是」)法界(以下判読不可)
明治廿八年十二月発願
とありました。夷谷(えびすだに)とは、日岡峠の東側にあった日岡村字夷谷のことですが、この地で動物の屠殺などが行われたとする記録はないので、あるいは処刑場のことを指しているのかも知れません。いずれにせよ、この地で亡くなった霊を弔う意味で建てられたものだと思われます。