一貫町 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

一貫町(いっかんまち)は、新選組の伍長兼監察・島田魁の妻・さくの実家・丹波屋定七の住居があったとされる場所です。島田魁本人が明治3年7月に書き記した「親類書」に

 

一、妻 西京一貫町百姓

      丹波屋定七 娘

 

とあります。その一貫町は京都市中京区にかつて存在した町ですが、今は上長福寺町(かみちょうふくじちょう)に含まれてしまっていて、一部の店舗にその名を残すのみとなっているようです。

 

一貫町は豊臣秀吉政権時代、京都市街の再整備の一環として作られた下松屋町通(しもまつやちょうどおり)の北側の始点にあたります。この下松屋町通は五条通を突っ切って当時の本願寺寺内町まで一直線につながるように作られた道です。そのため五条通の南側には突抜町(つきぬけちょう)という町名も残っています。

 

 

※.南側から見たかつての一貫町。突き当たりにあるのは法宣寺。

 

 

下松屋町通の始点ということもあってか、江戸時代の絵図には周囲の町名は書かれていない場合でも一貫町だけは「一クワン町」などと表示されていることが多いのですが、実際の町の規模は小さく、松原通と一本南の万寿寺通(まんじゅじどおり)の間の一区画のうちの北側が一貫町、南側が上長福寺町となっていたので、実際に一貫町に属していた家屋は道の両側を合わせても数軒程度にすぎなかったものと思われます。

 

島田魁の「親類書」では丹波屋定七を百姓としていますが、同時に丹波屋の屋号を持っていることから商売人も兼ねていたと思われ、そう考えると松原通沿いに店を出していたと考えるのが一番可能性が高いのかなという気もします。

 

 

※.松原通沿いの旧一貫町の入り口。

 

 

島田魁と妻のさく(さと)は慶応元年八月十五日に結婚したとされますが、二人の出会いについて、ご子孫は「島田魁は新選組の見廻りの際に、いつも丹波屋に立ち寄って休憩し、お茶をご馳走になっていた」と語っています。ということは、二人の出会いはもっと以前だったということになります。

 

それに関して当時の古地図を見てみると、ちょっと面白い発見がありました。

 

 

 

古地図をそのまま掲載してもちょっとわかりにくいかと思ったので、あらためて書いてみましたが、見れば一目瞭然、一貫町は壬生の屯所(図中の誠の旗の位置が八木邸と前川邸)と、肥後藩邸をはさんで対局の位置にあったのです。

 

ちなみに、肥後藩邸はもともと柳馬場押小路にありましたが幕末にこの地に移って来ています。古地図の「新撰京絵図」(文久二年)には藩邸が描かれていますが、翌文久三年版の「文久京都図」では同地は畑となっているので、おそらくはこの二つの絵図の製作・販売の順番が相前後していて、その間に肥後藩邸は建設されていたのではないかと思われます。

 

そして、当時の肥後藩といえば宮部鼎蔵、松田重助、河上彦斎ら、新選組が厳重マークしていた人物がいて、藩邸に出入りしていた可能性がありました。

 

つまり、島田魁は見廻りの間に休憩に立ち寄ったのではなく、本当は肥後藩周辺を監視するという明確な目的を持って丹波屋を訪れていたのではなかったかと思われます。そこで恋が芽生えたとすれば、それもまた人の縁の不思議さというべきでしょうか。