土佐の狂犬(六)陸援隊 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

さて、ここで少し陸援隊について書きたいと思います。慶応三年頃になり、薩長を中心にいよいよ倒幕の機運が高まると、京に潜伏している浪士たちの活動もさかんになってきました。それに対し、新選組など幕府側の探索も厳しさを増してきたので、中岡慎太郎は浪士たちを一ヶ所に集めて保護するとともに、調練を加えて鍛え上げ、いざ事ある時のために備えることにしました。

 

こうして慶応三年(1867)六月、陸援隊が結成されることになるのです。その屯営となったのが、前年冬に土佐藩が藩兵の上洛に備えて購入した洛北白川村の藩邸でした。

 

 

※.陸援隊屯所跡(現・京都市左京区吉田本町 - 京都大学吉田キャンパス北部構内。実際に屯所があったのは構内最奥部の附属農場あたりとされる)

 

 

ちなみに、この陸援隊屯所のあった土佐藩邸に関して、書物によって「白川藩邸」「今出川藩邸」「百万遍藩邸」などと書かれている場合がありますが、今出川通の百万遍(知恩寺)に隣接する白川村にあった藩邸なので、どの呼び方でも間違いではありません。

 

 

※.「慶応四年改正京町細見図会」より白川村土佐藩邸

 

 

陸援隊に参加したのは以下の人々です。

 

【土佐】

中岡慎太郎…隊長。変名・石川清之助、横山勘蔵。近江屋事件で横死。

大橋慎三…副長。旧名・橋本鉄猪。柳図子党。

木村弁之進…副長

田中顕助…副長。のち伯爵。

山中敬蔵…旧名・池大六

岩村精一郎…天満屋事件。のち男爵。

片岡源馬…旧名・那須盛馬。のち男爵。

宮川助五郎…三条制札事件で新選組に捕まる。

斎原治一郎…のち大江卓。横浜の町づくりに貢献。

中島作太郎…元海援隊。龍馬の死後、陸援隊に合流する。

本川安太郎…天満屋事件で右腕を失う。

山脇太郎…旧名・中山鎌太郎

松嶋和助…三条制札事件。天満屋事件。

山崎喜都真…「喜都馬」とする書も多いが「喜都真」が正しい。

豊永貫一郎…三条制札事件。天満屋事件。

竹野虎太…三条制札事件で片耳を失う。

藤澤潤之助…旧名・沢田屯兵衛。三条制札事件。天満屋事件。

前島貢吉

 

【水戸】

香川敬三…副長。旧名・鯉沼伊織。柳図子党。のち伯爵

中野幸助

山田小二郎

早川仙太郎…笠岡藩。

中川秀五郎

田辺健介

田崎敬助…水戸本圀寺党。柳図子党。維新後北海道に移住。

芳野昇太郎

淵川忠之助

岩崎誠之助

平井喜代三

飯田忠彦

小宅左馬

松岡新七郎

 

【肥後】

藤村四郎…のち紫朗。柳図子党。のち男爵。

 

【豊後】

山県小太郎

 

【薩摩】

波江田耕平…姓は海江田とも。

楠見良五郎

 

【長州】

村山謙吉…新選組の間者。慶応四年閏四月、七軒町において殺害とされる。

 

【関宿】

里見綱之助

 

【三河】

山本一郎…東山道軍監察として松田正雄らの戦死状況を調査する。

浦島三郎…別名・小山轍太郎

松田清蔵

小林三之助

坂田甚作

村田一斎…別名・武内藤左衛門

山本二郎

杉浦種四郎

谷喜三郎

 

【京都】

山岡将曹…もと鷲尾隆聚家来。慶応三年九月、新選組に逮捕さる。

山田正親

安藤新太郎…鍛冶屋。中岡の従者

松蔵…中村新太郎の従者

谷口庸徳

塩山勘解由

高橋九一…東本願寺家来

北村久三郎…土佐藩用達

朱雀操…本名・林田衛太郎。慶応四年二月、英国公使パークスを襲撃し斬死。

 

【伊予】

中村新太郎

 

【武蔵】

河上邦之助…神道無念流。渋沢栄一の幼馴染

木村誠吉

栗山甚七

 

【対馬】

津田良介

 

【甲州】

木村勝之進

 

【備中】

松林織之助…平川村郷士

岡田範三…足守藩。別名・笹岡範作

 

【奥州】

伊藤源助…白河藩。徴兵七番隊取締方。大村益次郎殺害。

 

【近江】

正源寺義胤…別名・三上兵部。のち三宮義胤。柳図子党。のち男爵

樹下石見守…姓は「じゅげ」。日吉神社宮司。柳図子党。赤報隊結成に協力。

 

【伯耆】

大村貞介…別名・中島貞五郎

荒木数馬

 

【尾張】

富田九郎…名古屋。別名・田村十郎。原市之進暗殺の鈴木恒太郎らと会う。

樫田甲子太郎…佐夜本陣。のちに陸援隊を離脱。

 

【大和】

水野八郎…郡山。橋本会助。元新選組。

春木義彰

 

【河内】

辻徳兵衛…手代

水郡清馬

 

更に50人ほどの十津川郷士がこれに加わり、総勢120~130人ほどの勢力となりました。

 

屯所に使用された家屋は、もともと幕府から摂海(大阪湾)警備の命を受けた土佐藩参政・吉田東洋が、そのための兵舎として大坂住吉に建設させた長屋を移築したもので、8畳の部屋が一人ずつに与えられるという、在京部隊の屯営としてはなかなかぜいたくなものでした。

 

食事は約4km離れた河原町の藩邸から毎日運ばれて来ましたが、持って来るのは白飯と漬け物だけでした。これではとても腹はふくれないので、近くの若王子村から村人が牛肉や川魚などを売りにやって来るのを買って、これをおかずにして食べていました。隊士が金銭を帯にくくり付けたのを窓から下ろして渡すと、その額に応じて切り身にしてくれたのを紙に包んでもらって引き上げ、これを鍋で煮て食べたのだといいます。…ちなみに、僕はずいぶん牛肉を口にしていません(笑)。

 

また、夜になると大勢で先斗町あたりに出かけて遊ぶのが常でしたが、なにしろ明日の命は知れぬ身だというので、勘定などはお構いなしに派手に遊んでいました。その肩代わりをさせられて、あとで泣きを見た女中や仲居がずいぶんいたといいます。もっとも、これなどは陸援隊以前からそうだったのだろうと思われますが。

 

 

・・・・・・ところで樫田甲子太郎って誰なんでしょう。気になります。そもそも尾張(愛知県)に佐夜本陣なんてありましたっけ?

 

 

※.陸援隊長・中岡慎太郎