伊地知正治(4)近藤殺すまじ | またしちのブログ

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明治元年四月、東山道鎮撫軍はいよいよ武州に進出し、板橋(現・東京都板橋区)に本営を構えました。伊地知正治は板垣退助(土佐迅衝隊総督)、宇田栗園(うだ りつえん。岩倉具視の側近)と並んで参謀に任命されていました。

 

その板橋の総督府に急報が届きます。下総国流山(現・千葉県流山市)に屯集する部隊に対し、その真意を糺すために向かった有馬藤太(薩摩藩士。伊地知の直属の部下)によると、部隊の隊長は大久保大和と名乗っているが、その実は新選組局長の近藤勇で間違いないというものでした。

 

四月三日、有馬藤太らは大久保大和と名乗る男の身柄を拘束し、総督府本営まで連行することになりました。ただし、宇都宮への転戦を命じられていた有馬は板橋へは同行せず、そのまま粕壁(現・埼玉県春日部市)に向うことになったので、上官である伊地知宛に書状を認めて上田楠次(土佐藩士)に託しました。その内容は以下のようなものだったといいます。

 

「この男は大久保大和と名乗っていますが、その実は新選組の近藤勇であることは疑いありません。賊といっても一隊の長を務めた者、出来るだけ丁重に取り扱って、官軍の寛容であることを示して下さい」

 

 

 

 

そして、板橋の総督府本営に連行された大久保大和ですが、まもなく東山道鎮撫軍に属していた元新選組の加納鷲雄や清原清らによって近藤勇であると看破されてしまいます。

 

坂本龍馬と中岡慎太郎の二人を新選組に殺害されたと思い込んでいた土佐藩士の谷干城(迅衝隊大軍監)や上田楠次らは、近藤を拷問にかけ、勝海舟や大久保一翁、山岡鉄舟らの命令で流山へ出兵したと自白させた上で処刑すべしと主張しました。

 

 

谷干城(土佐迅衝隊大軍監)

 

 

谷は近藤のことを「ほとんど博徒の頭に等しきのみ。博徒の頭、何ぞ拷問棘楚を遠慮せんや(ほとんどヤクザの親分のようなものだ。ヤクザの親分なら、どうして拷問やトゲの鞭を遠慮する必要があろうか)」とまで言い放ちます。東山道鎮撫総督の岩倉具定も谷の意見に同調しますが、これに猛然と反論したのが伊地知正治でした。

 

 

東山道鎮撫総督・岩倉具定(当時17歳)

 

 

伊地知の主張は、近藤はそのまま京に送るべきであって、死罪にするべきではないというもので、岩倉具定総督に

 

「この事独り我共の論計にてはこれ無く、薩州の論なり。この儀を御採用なき時は兵を率いて帰る。これ迄の大業は誰の成せしに候や」

 ~このことは私一人の考えではなく、薩摩の藩論であります。意見を採用してもらえないなら、私は兵を率いて薩摩へ帰ります。これまでの(維新の)大業は、誰のおかげで成し得たとお思いか。

 

と迫りました。が、当然ながら土佐側も譲らず、西郷吉之助が間に入って「江戸攻めを目前にして仲間割れをしている場合ではない」と伊地知を説得しますが、伊地知も頑として受け入れません。結局は東征大総督・有栖川宮熾仁親王が仲裁に入ることになりました。

 

 

東征大総督・有栖川宮熾仁親王

 

 

有栖川宮熾仁親王の仲裁案は「近藤勇の身柄は京に送った上で処刑する」というもので、言葉だけをみれば「京都へ送る」という伊地知の意見と、「処刑する」という谷の意見の間をとったようにみえますが、あくまで処刑することが前提であるので、事実上伊地知の負けといえます。大総督までが仲裁に乗り出したとあっては、伊地知も引き下がるしかなかったのでしょう。

 

こうして、近藤勇は四月二十五日に板橋刑場において斬首されることになるのです。京へ送るという約束も結局守られることはありませんでした。

 

 

この逸話、たとえば伊地知の伝記など、薩摩藩側から出てきたものであれば「美談の捏造ではないか」と疑いたくなるところでしょうが、話の元は他ならぬ谷干城の『東征私記』なのです。

 

谷は、伊地知がここまで意地を張ったのは土佐藩に対する嫌がらせだと思ったようです。谷からみれば、新選組の近藤勇などは処刑されるのが当然であって、官軍参謀ともあろうものが近藤の助命を主張するなど、自分たちへの嫌がらせだとしか思えなかったのでしょう。

 

では、実際のところはどうだったのでしょう。残念ながら伊地知正治は自分の生涯を振り返ることを一切しなかったので、この時何を考えてこのような行動をとったのかも、何ひとつ語り残していません。

 

ただ、有馬藤太がそのヒントになりそうなことを語り残しています。有馬がのちに聞いたところによると、伊地知は、有馬が送った上記の書状を読んで号泣したそうです。これに関しては書状を書いた有馬本人も、どこに号泣するポイントがあったのか理解出来なかったようですが、「英雄に非ざれば英雄の心中は分かるものではない」と伊地知の心情を推測しています。

 

あるいは伊地知正治と近藤勇、禁門の変あたりで顔を合わせていたのではないでしょうか。薩摩の副官であった伊地知と、新選組局長の近藤なら、軍議の席などで顔を合わせていたとしても不思議ではありません。

 

合伝流の特色は少数精鋭主義と速攻です。池田屋事件における新選組の働きはまさに合伝流の真髄に通じるものがあったといえます。伊地知は武人として近藤勇に相当の敬意を抱いていたのではないでしょうか。薩摩においては変人扱いだった伊地知も、あるいは近藤勇とは意気投合したのではなかったでしょうか。御所に迫る長州軍を前に、「お互い命かけて帝をお守りしましょう」と誓い合ったのではなかったでしょうか。

 

何しろ知られているかぎり、伊地知正治が涙を流したのは後にも先にもこの時だけなのです。何かよほど深い思いが近藤勇に対してあったのではないかと思えてなりません。そして最終的に処刑することを呑んだことからしても、伊地知の真意は近藤の命を助けるというより、せめて京の地で武士らしく腹を切らせてやりたいというものだったのではないかと思われて仕方がないのです。