佐久間象山の暗殺(23)もうひとりの男 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

河上彦斎の真の目的が、師・宮部鼎蔵の敵討ちにあったとしたら・・・・・・。

 

はたして、大して面識もない他国の人間を相棒に選ぶものでしょうか。どうせならやはり、同じ思いを持った肥後の同志を連れて行きたいのではないでしょうか。

 

そういう意味で、ちょっと気になる人物がいます。

 

以前紹介した『酒泉直滞京日記』のことを覚えているでしょうか。事件当日、木屋町二条の水戸藩士吉成勇太郎宅にて事件を目撃していた酒泉彦太郎(直)の書き残した日記なのですが、元治元年七月十一日におきたこの事件に関して、なぜか三ヶ月以上前の四月一日付で書かれているのです。

 

その日記にはもうひとつ大きな謎が隠されている、と『佐久間象山の暗殺(8)』の最後に書きましたが、実はその「大きな謎」というのがこの人物のことなのです。

 

 

その人物というのが高木元右衛門。宮部鼎蔵や河上彦斎と同じく肥後勤王党の一員です。『酒泉直滞京日記』では、佐久間象山暗殺の一件に続いて、この高木元右衛門のことを字数を割いて書き記しているのです。

 

同時のころ、肥後人高木元右衛門、一橋邸内寓所に来たり面接す。その心情を問い、同人は親兵募集の一人にて、肥後の勤王家河上彦斎など同志なるよし。

 

からはじまるその記述の中で、高木元右衛門が七卿落ちに従い長州へ赴いたこと。その後、肥後藩の藩論が佐幕に傾いたため、意を決して脱藩したこと。京都や大坂は幕府の警戒が厳しく身の置き場所がないので、吉成勇太郎邸に助けを求め、しばらく潜伏していたこと。しかし、吉成邸には会津藩士の出入りもあり、吉成本人にも嫌疑がかかっていたこともあって、同志たちの周旋で蛸薬師通に家を借り、「水戸下宿」と表札を掲げて同所へ潜伏していたこと。

 

更には池田屋事件の夜(酒泉は日記中に「元治元年(月日忘却す)」と但し書きをしているので、この高木元右衛門の件とその前の佐久間象山暗殺の件は、やはり後日書かれたものであることがわかります)、宮部らが集まっていた池田屋が新選組に襲われたと聞いた元右衛門は、宮部たちを救うべく池田屋へ向かったこと。そして新選組に取り囲まれたものの、かろうじて脱出し、長州藩邸に逃げ込んだこと。

 

そして禁門の変、高木元右衛門が長州軍に身を投じて堺町御門の戦闘で死んだと、後日人づてに聞いたことを書き綴っているのです。酒泉彦太郎は高木元右衛門と親しかったのかも知れませんが、どうもこれを読んでみると、佐久間象山暗殺の一件は、高木元右衛門のことを書くための「前フリ」だったのではないかとさえ思えます。

 

しかし、不思議なのは目の前で目撃していたはずの「佐久間象山殺害」という一大事は、いつのことだったか忘れているのに、高木元右衛門が御親兵に募集するために一橋邸を訪れたということに関しては、佐久間象山が殺害されたのと同日だったと覚えていたという点です。普通は逆じゃないかと思うのですが。

 

更に言えば、いくら剛毅の人であっても、ほんの一ヶ月前の池田屋事件で新選組と斬り合って長州藩邸に逃げ込んだばかりの人物が、一橋邸に自分から出頭して御親兵という「公職」に募集など出来るものでしょうか。

 

はっきり言って、これはどうも嘘くさい。酒泉は、高木元右衛門が佐久間象山殺害の一件に関わっていないというアリバイを偽装したかったのではないか・・・。そう思えてならないのです。

 

 

つまり、河上彦斎と共に佐久間象山を襲ったのが、他ならぬ高木元右衛門だったのではないかと思うのですが、もちろん、それには色々と疑問点や矛盾点があります。そもそも河上彦斎は隠すことなく、刺客の一人としてしっかり名を残しているのに、共犯の高木元右衛門だけ偽名を使ったということになるのは、おかしな話です。

 

ただ、それについては河上彦斎と同様の理由があったと考えると、少しは説明がつきそうです。つまり、高木元右衛門もまた河上彦斎と同じく、あくまでも宮部鼎蔵の敵討ちが真の目的であって、佐久間象山を斬るつもりはなかったのではないでしょうか。

 

ところが象山があくまでも立ち向かってきたので、成り行き上、斬るしかなくなってしまった。そして、元右衛門は彦斎以上に、佐久間象山ほどの人物を斬ってしまったことに責任を感じてしまったのではないでしょうか。

 

同じ肥後勤王党の堤松左衛門は、横井小楠殺害に失敗しながらも、その責任をとって自決しました。自分も松左衛門のように死んで罪を償いたい・・・・・。元右衛門はもとから死ぬ覚悟で禁門の変にのぞんだのではなかったでしょうか。同志の彦斎に後事を託して・・・。

 

象山殺害に加わったことを大きな罪と考えていたのならば、そのことで後世自分が評価されることを、元右衛門は決して快く思わないだろう。そう考えた同志たちは、元右衛門がやったことにしなかった・・・・。そう考えるのは妄想が過ぎるでしょうか。

 

いずれにしろ、たとえば薩摩や土佐などは、天誅という名の暗殺には藩士は直接手を下さず、田中新兵衛や岡田以蔵など身分の低い郷士などにやらせていたのに対し、肥後勤王党は藩士自らが剣を振るって、その責任を自分自身で取っています。少なくともその点において肥後勤王党はもっと評価されてしかるべきだと思われます。

 

 

霊山墓地、高木元右衛門源直久の墓。

 

 

 

『酒泉直滞京日記』の前回の記事は以下からどうぞ。

 

佐久間象山の暗殺(8)『酒泉直滞京日記』の謎