新選組 浅野薫(9)浅野薫と山南敬助 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

伝えられている浅野薫の“最期”は、「脱走して某所に潜伏したのち、屯所に戻り、その後沖田総司に斬られた」と要約する事が出来ます。これは『新選組始末記』(子母澤寛)が伝える山南敬助の最期に共通する部分が多いように思われます。

 

勇は、近来山南の様子が日頃と変わっているのを注目していた際であったから、すぐにその脱走が知れ、沖田総司が馬で追いかけて、近江大津で、宿をとっていた山南を発見し、直ちにこれを、壬生へつれ戻って、宿舎の前川方一室に監禁した。沖田は勿論、山南が帰らぬといって刀に手でもかけたならば、その場で隊規によって斬棄てる覚悟で出かけたが、山南は、ただ言うがままに悄然として戻って来た。脱走は仕切れないと諦めたようである。

 ~『新選組始末記』より「山南敬助の最後」(子母澤寛)

 

 

 

 

僕は今、浅野薫が新選組を脱走してからしばらく潜伏していたとされる山科に住んでいるのですが、実はこちらに引っ越してきて、はじめて気づいた事実があります。

 

山科(山城国・現在は京都府)と大津(近江国・現在は滋賀県)は、国境のとなり町という事になりますが、その間には逢坂山があって両者を分け隔てている・・・と以前は考えていました。

 

が、実は逢坂山の西側、つまり山科盆地側にも大津の町の一部が存在します。これは昔からの事で、現在も変わりません。つまり、山南敬助が潜伏していた(宿をとっていた)「大津」が、実は山科盆地の方だった、という可能性も出てくるわけで、そうなると浅野薫と山南敬助の“潜伏地”が近かった、もしくは同じ場所だった可能性もないとは言えなくなるのかも知れません。

 

「いや、そもそも時期が異なるだろう」

と考える方もいらっしゃるでしょう。まさにそれは正論なのですが、そもそも、二人は本当に新選組を脱走して潜伏していたのでしょうか。むしろ、何か共通の目的があって二人は山科もしくは大津に“滞在”する必要があったのではないでしょうか。ただし、おそらくそれは公には出来ない理由であって、だから西村兼文は山南敬助が大津で宿をとっていた本当の理由を知らなかったし、阿部十郎も自分たち(御陵衛士)の手引きで浅野を山科に潜伏させたと思い込んでいた、そういう見方も或いは出来るのではないでしょうか。

 

 

 

実を言いますと、「新選組」・「山科」・「大津」、この3つの言葉は、ある共通項で括る事が出来ます。それは他でもない「西本願寺」です。

 

西本願寺が新選組の二代目屯所であった事は言うまでもありませんが、山科には本願寺山科別院、大津には近松別院という西本願寺の本山直属寺院があります。「西本願寺系列のお寺なら全国各地にあるだろ」と言うなかれ。山科別院と近松別院は、本願寺中興の祖・蓮如上人ゆかりの、本願寺の歴史上非常に重要な寺院なのです。

 

山科・大津はいずれも京都市街から、その日のうちに往復出来る距離です。新選組などに追われて京の町にいられなくなった不逞浪士が逃げ込むには格好の場所と言えますが、そういう例は今のところ確認出来ていません。そして、その山科と大津には近藤勇の信頼高かった浅野薫と山南敬助がそれぞれ“潜伏”していた・・・。

 

どうやら新選組と西本願寺の関係自体を、一度見直してみる必要があるのかも知れませんね。

 

山科・大津周辺図。緑色が山地、赤い点線が境界線になります。

 

 

 

JR山科駅から約1km東にある京都市と大津市の境界(旧東海道)。

 

 

 

本願寺山科別院。

 

 

 

本願寺近松別院(近松御坊とも)。

 

 

山科別院の近くにある、蓮如上人御廟所。