新選組 浅野薫(1)夕やみの桂川 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

新選組に、諸士調役兼監察で、のちに脱走して殺害されたという浅野薫という隊士がいます。

 

 

 

 

これは元備前の藩でございました。かなり学問もございますし、手も能く書きます。剣術もちょっと遣います。(阿部十郎『史談会速記録』第八十三輯)

 

その浅野薫は、除隊(もしくは脱走)後に隊名を騙って金策を行なったとして、沖田総司の手により斬殺されたと『壬生浪士始末記』に西村兼文が書いています。

 

隊士川島勝治は、元洛西川島村の産にして、これも初発より加盟の一人なり。臆病をもって除隊せしめたるが、なおまた隊名を偽り金策したる事露顕に及びたれば、これを捕らえ来たり坊主にして、二条河原において断頭す。この太刀執りは富山弥兵衛なり。また隊士浅野薫も同様の所業ありて葛野郡川勝寺村の川中へ沖田総司に切り捨てさせたり。(西村兼文『壬生浪士始末記』)

 

浅野薫が沖田総司に殺害されたという「葛野郡川勝寺(せんしょうじ)村」は、現在の右京区西京極中町周辺に該当します。現在、この付近は軒並み「西京極○○町」という町名になっていますが、地区名としては今でも「川勝寺」の名が残っているようです。

 

 

京阪京都交通・川勝寺バス停

 

 

松尾大社神輿巡幸による駐車禁止を知らせる川勝寺青年会の貼り紙

 

 

ここは戦国時代初期の大永年間に、室町幕府(足利義晴)軍と堺公方(足利義維)軍が二度()に渡って戦った古戦場であり、この戦いで将軍・義晴が近江へと逃亡したことが足利政権崩壊の大きな原因の一つとされています。

 

西京極といえば、その名のとおり京都の西の極(きわ)になるのですが、近くを桂川が流れていることから、浅野薫は京都を脱出しようとしてここまでやって来たところを、追いかけてきた沖田総司によって桂川の川中で切り捨てられた、というのが一般的な認識だと思います。僕もそう思っていました。しかし、川勝寺村から桂川までは歩いて15分ほどかかり、実はそれほど近いというわけでもないのです。

 

実はその川勝寺村の西はずれには、かつて紙屋川(現在の天神川)が流れていました。昭和の河川改修によって、現在は数百メートルほど西に流れを変えていますが、以前はこの紙屋川が川勝寺村と西隣の郡(こおり)村との村境だったようです。つまるところ、西村兼文のいう「川勝寺村の川」というのは、むしろこの紙屋川のことである可能性が高いと思われます。

 

明治初期の川勝寺村付近略図(京都近代オーバーレイマップを参照)。

 

ちなみに、上図の川勝寺村を東西に伸びる道を桂川を越えた先に徳大寺村があり、更に少し西に進んだところに川嶋村があります。『壬生浪士始末記』にいう「川島勝治」こと川島勝司の出身地・西川島村とは、この川嶋村のことだろうと思われます。一緒くたに書かれた2人に関連する場所が妙に近いのが何となく気になりますが・・・。

 

さて、この浅野薫粛清の一件に関しては、かねてより疑問がありました。そもそも、なんでこんなところで殺されなければならなかったのでしょう。

 

現在の桂川土手。当時はこのあたりが川だったと思われます。

 

 

現在の天神川。ちなみにかつての流れの名残りは、この付近にはまったく残っていないようです。

 

 

. 桂川原の戦い(大永七年(1527)二月)と川勝寺口の戦い(同年十月)。幕府方は越前の名将・朝倉宗滴らの加勢を得て勝利するが、その朝倉軍が宗滴と幕府管領・細川高国との不和から帰国してしまい、主戦力を失った足利義晴は近江の六角氏を頼って都落ちした。