山南敬助(5)脱走と切腹を考える | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

あさくら先生の発表に便乗するみたいで申し訳ありませんが、今回は僕が考えた事をお話したいと思います。繰り返しますが、これからお話する事は、あくまでも「こういう事だったのかも知れない」という僕の推論であって、あさくら先生が山南忌で発表されたお話ではありません。

 

山南敬助は、なぜ“脱走”しなければならなかったのか、なぜ切腹しなければならなかったのか…。

 

副長三南三郎は旧仙台藩にして柔術の高手なり。少しく時理の弁(わきま)えある者なれば、近藤勇に諫言して曰く、威力を僧侶に示し転陣を名とし陰に同寺(=西本願寺)の動静を探らんとするは実に卑劣に触れて見苦しからずや。陣所は本願寺に限るべからず。

(中略)

その言を容れざるは土方等の奸媚によると憤激の余り一書を遺し丑三月下旬、終(つい)に自刃す。

 ~『壬生浪士始末記』(西村兼文)

 

元来が勤王思想であり、徒(いたず)らに武力を以て事件を解決する隊の方針については、不賛成なことが多かった。殊に、伊東甲子太郎入隊以来は、その勤王攘夷論に心酔し、尊敬した。機会があれば、新選組を脱退して、一意勤王運動に尽くさんとの心があり、暗黙の間に、伊東一味と一脈の通ずるところがあって、或日、突然、脱走してしまった。

 ~『新選組始末記』(子母澤寛)

 

西本願寺への屯所移転問題や、伊東甲子太郎と気脈を通じたことによる近藤との意見対立などから、ついには切腹して果てるに至ったとしているわけですが、どうも今一つしっくりとこないものがあるように思います。

 

山南敬助の切腹に関しては、おそらくその遠因となったかも知れないひとつの事件があります。俗に言う「岩城升屋事件」です。当時大坂最大の呉服屋であった岩城升屋に不逞浪士が押し入ったという報せを受け、当時同地に出張中だった山南敬助らが出動して浪士を撃退したという事件ですが、その発生した時期に関しては文久三年から翌元治元年頃であろうという程度で、はっきりした事はわかっていないようです。

 

ただ、この事件に関してはひとつ大きな“証拠”が残っています。山南敬助が事件で使用した刀「赤心沖光」の押し型が残っているのです。

 

 

「新撰組局長助山南敬助、岩木升屋へ乱入の浪士共を討ち取り候節、打ち折り候刀」とありますが、血まみれで大きく折れた様子は、戦闘の烈しさを思わせます。

 

ただ、ここにひとつの疑問が湧きます。血の量が多すぎるのではないか、という疑問です。

 

時代劇のチャンバラみたく、敵が次から次へと襲いかかってくるならいざ知らず、実際の事件で山南敬助が切り結んだのは、せいぜい数人の浪士だったはずです。しかも相手の肉体を斬り裂くのは一瞬のこと。よくよく考えてみたら、刀身にここまで血が残るのは不自然な気がします。

 

むしろ、この血は、この赤心沖光を握りしめていた山南敬助本人のものだったのではないでしょうか。つまり、山南はこの戦闘でかなりの重傷を負ってしまったのではないか、と思うのです。

 

あくまでも推定ですが、おそらく山南敬助は、この事件以後、満足に戦うことが出来ないようになってしまった。武闘集団新選組の幹部に見合う働きが出来なくなってしまったのではないでしょうか。

 

「だから徐々に居づらくなって切腹に追い込まれたのでは…」と、以前は考えていたのですが、むしろそれは逆だったのではないか、と最近考えるようになりました。つまりは居づらくなる前に円満に除隊するつもりだったのではないかと思うのです。

 

除隊するといっても、せっかく新選組の幹部として名なり功なりを挙げたのに、再び浪人へ逆戻りでは意味がありません。そこで考えられるのが「帰参」です。元の藩への復帰です。おそらく山南敬助は、新選組を円満に除隊して仙台藩に帰参し、江戸なり京なりで何か別の道を歩もうとしていたのではないでしょうか。

 

「局を脱するを許さず」という局中法度は、おそらくは子母澤寛の創作なのだろうと思いますが、意見の対立や、何か罪を犯して逃走するわけでもなく、負傷によって充分に隊に貢献出来なくなってしまったので辞めたい、という本人の願いであれば、近藤勇も敢えて命を取ろうとは思わなかったはずです。むしろ、自ら会津藩などを通じて手を回し、山南が無事に帰参出来るよう取り計らったのではないでしょうか。

 

ただ、帰参というのは「また藩士として雇って下さい」「はい、どうぞ」というわけにはいきません。脱藩の罪を許してもらい、改めて主家に奉公させてほしいと願い出るわけで、仕官先の仙台藩としても、簡単に答えを出せる問題ではありません。結論が出るまではある程度の時間が必要だったはずです。

 

また、事情はどうであれ、それは幹部が「辞めるための準備をしている」状態なわけで、他の隊士たちと屯所で毎日のように顔を合わせるのも、双方にとってあまりよろしくない。だから、近藤は山南敬助を(おそらくは)大津に隠棲させたのでしょう。だからその後の記録に山南敬助の名はほとんど出てこなくなる。

 

そして、おそらくこの山南敬助帰参の話は、順調に進んでいたはずです。ところが最後の最後になって、何かの不都合があった。そして仙台藩が出した結論は「帰参は認められない」だったのではないでしょうか。

 

おそらく、そうならないだろう、上手くいくだろうという見込みがあったからこそ帰参の話を進めていたのでしょうが、認められないとなると、山南敬助に残された道は自害することしかありません。

 

何しろ元々は自ら藩への奉公、殿様への臣従を放り出して脱藩したのですから、帰参が認められないということは、その罪が許されないということです。また、自ら帰参を願い出た以上、認められないからといって、「じゃあ、この話はなかったことに」というわけには決していきません。つまりは「元藩士」として脱藩の罪によって腹を切るしかなくなってしまった…、ということではなかったでしょうか。

 

そう考えると、いろいろ納得がいくな、と考えていたのですが、今回のあさくら先生の発表により、平戸藩士山南茂次衛門の存在があきらかになりました。もしも山南敬助がもともとは平戸藩士・茂次衛門の息子であり、帰参を願い出たのが仙台ではなく平戸藩だったとしたら…。

 

未だ家督を継いでいなかったはずの山南敬助には、自害しなければならないほどの罪はなかったはずです。それでもなお山南敬助が死ななければならなかったとすれば、彼に「死ぬべし」との一書を与えたのは“父”茂次右衛門だったかも知れません。自慢の息子だったがために武士らしく「忠臣二君に従えず」を貫いてほしかったのかも知れません。現代人の感覚からすれば受け入れがたい話ではありますが、武家ならば十分あり得ることだと思われます。