山南敬助(1)れっきとした武士 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

先日の山南忌では、あさくらゆう先生から山南敬助に関して大変興味深いお話がありました。ひょっとしたら今後、すごい事になっていきそうな、とてもおもしろい話だったと思うので、これから何回かにわけてご紹介させてもらいたいと思います。

 

まずは山南敬助と天然理心流、そして試衛館道場に関して。

 

天然理心流試衛館といえば、司馬遼太郎の小説の影響でしょうか、「田舎剣法」「貧乏道場」といったイメージが定着している感があります。

 

たしかに、多摩地方へ出稽古に行っていたし、そこで教えていたのはほとんどが百姓の子弟だったのは事実です。しかし、試衛館は違いました。江戸の町なかにあった試衛館は、江戸に住む武士たちを教えるための道場だったのです。

 

牛込二十騎町には御先手組の組屋敷がありましたが、こちらは御先手組の中でも鉄砲組の組屋敷でした。鉄砲組といっても、もちろん武士である以上は剣術が不要というわけにはいかなかったわけで、天然理心流側の史料である『近藤周助神文血判状』『周斎香奠(典)帳』と御先手組の『御鉄砲玉奉行当分手附高之儀取調書付』とを比較してみると、御先手鉄砲組の中に天然理心流の門人が少なからずいたことがわかるのです。

 

江戸切絵図「市ヶ谷牛込絵図」より市谷甲良屋敷と御先手組屋敷

 

そして山南敬助の話になるのですが、浪士組の名簿である『浪士姓名簿』には山南敬助についてこのように書かれています。

 

松平陸奥守浪人

当時牛込廿騎町小谷陽之介地内に罷在候

  山南敬助 

       亥二十八

 

『浪士姓名簿』より

 

 

「小谷陽之介地内に罷り在(あ)り」とは小谷家に下宿していたという意味ですが、ではこの小谷陽之介とは何者かというと、やはり『近藤周助神文血判状』に同じ牛込二十騎町在住の門人として小谷重之丞、小谷源太郎がいること、近藤勇が手紙を書き送っている人物であることなどから、やはり天然理心流と深い関わりがあった人物と思われ、重之丞・源太郎の親族であると考えられます。

 

そして、このように「武士のための道場」であった試衛館の真の姿を考えると、そこに出入りしていた山南敬助のまた商人や百姓の出ではない「れっきとした武士」であったと考えられるのです。

 

 

・・・何か自分の言葉のように書いてしまいましたが、言うまでもなく、これはあさくら先生が山南忌でお話された事の受け売りです。記憶違い等がもしあったらごめんなさい。