新選組 奴茶屋事件(4) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

新選組は各地に独自の番所を設けていたのではないか。そう考えてみると、これまでの定説の中にも違った景色が見えてきます。

 

慶応三年六月二十二日、この奴茶屋事件の主役である武田観柳斎が、鴨川銭取橋において暗殺されます。

 

 

観柳斎の死に関しては、『世襲志』に

 

六月二十二日、油小路竹田街道にて、元新選組武田某肩先より大袈裟に切害に及び相果て候。右仕業人は新選組仲間とのよし。他に三人身寄りわからず貰い出の人これ有り。これも一所に切害に出会い候処、そのみぎり逃げ抜け去り、何分枚方に在りて切腹致し相果て候よし。

 

とあり、他にも伊東甲子太郎の御陵衛士に加わろうとして断られたとか、薩摩藩に接近を図ろうとして新選組に感づかれて殺されたのだとか、色々と「~よし(=らしい)」で締めくくられる話があって、それが半ば事実であったかのようになってしまっていますが、ここでもう一度思い直してみて下さい。

 

粟田口が近江から山科を経て都大路に入る、京都の北の玄関口なら、観柳斎が殺害された竹田街道銭取橋は、大坂から伏見を経て都大路へと入る南の玄関、竹田口ではありませんか。

 

実は武田観柳斎、新選組を裏切ったなどとは全くの出まかせであって、粟田口の警備から竹田口へと配置換えになったあと、治安の悪い銭取橋を部下の隊士を引き連れて見廻り中に、待ち伏せされて殺害されたのではないか・・・。

 

しかし、武田観柳斎を殺したのは新選組だと言われています。それでは辻褄が合わない事になりますが、そこに関しては偶然にも先日のブログの中に答えが出ていたのかも知れません。

 

岩倉具視の慶応三年、もしくは四年の十月二十四日付の書簡に記された「新選組 清水」です。これが実は三木三郎の「三木」を「シ水」と読み間違えたのではないかという話。実は御陵衛士が新選組から分離した別組織であるという事実は、当時の人々にはほとんど認識されていなかったのではないでしょうか。

 

もしそうだとすれば武田観柳斎、実は最後の最後まで新選組としての任務を全うしていたという事になります。逆に御陵衛士は、なぜ武田観柳斎を殺害しなければならなかったかが気になりますが、あるいは事件の八日前に起きた佐野七五三之助らの死に対する仕返しだったのでしょうか。

 

まあ、あくまでも想像の話であって、もし事実だったら面白いという、空振りかホームランかというような話ですが、こういう妄想から案外真実が見えてくる事もあるかも知れませんね。(終わり)