仙台の猛獣 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

天保四(1833)年七月十五日、仙台藩江戸留守居役伊藤要人へ宛て、国元から一通の書状が届きました。

 

同年五月十日のこと、宮城郡小川村に住む杣(そま)浅右衛門という者が、暮れ七つ時過ぎ(夕方5時頃)に高嶋山(高森山のことか)からの帰り道、白猿谷というところに差しかかった時、身のたけ一丈(約3m)もある人間の形をした猛獣が突然あらわれ、浅右衛門に向かって猛然と突進してきたというのです。

 

浅右衛門は手に持っていた斧を振り回しながら信仰していた塩竈明神の名を何度も唱えましたが、猛獣が目の前まで迫ったところであまりの恐ろしさに気絶してしまったといいます。そして、しばらくして気がついた時には猛獣の姿はどこにもありませんでした。

 

その後、近隣の村々で葬式を済ませ埋葬したばかりの遺体が掘り起こされ、持ち去られるという事件が頻発し、人々は浅右衛門が見た猛獣のしわざに違いないと噂し合いました。

 

そこで郷役人が猟師20人ばかりを引き連れ猛獣退治に向かいます。山々を捜索した結果、来迎谷というところでついに猛獣を発見、鉄砲を撃ちかけますが、猛獣は少しも慌てず、飛んできた弾丸を素手でキャッチしてそのまま投げ返したといいます。

 

そこで郷役人が得意の弓矢を射掛けたところ、矢は見事猛獣の体に突き刺さりました。が、猛獣は驚いて逃げ去ってしまったので、とどめを刺す事は出来ませんでした。

 

その後も周辺の村で遺体の掘り起こしや牛馬が連れ去られるなどの被害が相次いだので、今度は100人規模の大捜索隊が編成されましたが、猛獣の姿を見つける事は出来ませんでした。

 

その後、仙台城下から北に四十里ほど離れた、出羽との国境の加美郡鬼頭村という山村にこの猛獣が出現し、やはり遺体を掘り起こしたり、牛馬を連れ去ったり、はたまた夜中に人家に入り込み、人を襲うのかと思ったらそのまま寝る(笑)などしたので、村人たちが鉄砲を携えて近くの山谷を昼夜捜索しましたが、猛獣は二度と姿をあらわす事はなく、結局この猛獣騒動はこのまま終息したようです。

 

ちなみにこの猛獣、髪は長髪で、顔は人のようでもあり猿のようでもあったと伝わります。『藤岡屋日記』には、藩から討伐隊が派遣されたような形跡もなく、何か別な事実を隠そうとして偽装されたデマなのではないか、というような推測が書き加えられています。