赤報隊、脱走する(1) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

赤報隊に関して、以前から引っかかっていた事があります。赤報隊は高野山での陸援隊の挙兵に呼応する形で、近江に兵を挙げる目的で結成されました。結成の中心人物である山科能登介(元行)は後年の史談会において以下のように証言しています。

 

五条為栄朝臣、鷲尾隆聚朝臣が勤王の有志輩を率いて、紀州高野山に義兵を挙げられた頃ゆえ、東方にも備えがなければ帝都の護衛が手薄い。加えて今海内擾々として、人民は王化の何たるを知らずして、只方向に迷うて人心洶々たる形勢ゆえ、これは志士が傍観座視しておる時ではないと思うて、東の方江州地方へ義兵を挙げて遥かに高野山と相応して王化の寛大仁慈なる事を示して、人心を鎮撫安堵せしむるが宜しかろうと考えて、綾小路侍従にその意思を談示すると意気投合して、たちまち協議が熟したから、正月六日の晩に叡山を越えて進行しました。 (山科元行『史談会速記録』)

 

つまり、当然ながら “官軍” に味方するために挙兵した事になるはずなのですが

 

正月六日の夜すなわち慶応四年戊辰正月六日の夜でありますが、山科能登介、荒木尚一、西本祐準、速水湊、箕田宇八郎父子その外数人と密(ひそ)かに京都を発しまして (油川錬三郎『史談会速記録』)

 

西郷吉之助、大久保市蔵、吉井幸助其の他公家よりも内命之あり。依って大原侍従、滋野井侍従大将として慶応四辰正月六日夜、窃(ひそ)かに京都を押し出す。 (『秦林親日記』)

 

方今中興の機会、これ座視傍観するに忍びず、忠志より脱走に及び候 (『大原重実履歴』)

 

 

彼等はなぜか「ひそかに」京を脱出しているのです。山科の証言にあるように比叡山を越えて近江坂本に出る事になるのですが、これは東海道筋に陣取っていた官軍諸隊との接触を避けるためだったと考えられます。つまりは官軍の目を盗んでの脱出劇だったという事になります。

 

これまでは金剛輪寺での結成をもって赤報隊の始まりと考えていたので、この脱走劇に関してあまり深く考えていなかったのですが、考えてみたらかなり不思議な話です。官軍に味方するつもりだったのに、なんでその官軍を避けて脱走しなければならなかったのでしょう。