文久三年九月二十五日、藤本鉄石の死と相前後して、総裁の一人松本奎堂が紀州藩兵に狙撃され戦死(自刃とも)。残る吉村寅太郎は傷が悪化して本隊から離れて行動していましたが、九月二十七日、鷲家村の駕籠茶屋にいたところを津藩兵に取り囲まれ、射殺されてしまいました(こちらも自刃説あり)。
また安積五郎は戦地を脱出したものの間もなく捕らわれ、翌文久四年二月十六日、京の六角獄舎にて首を刎ねられました。
こうして天誅組は壊滅し、残された彼等の同志たちは、やがて倒幕派へと身を転じざるを得なくなっていくのです。
一方、京の都に身の置き場所がなくなってしまったのは、一人残された鉄石の妻園子も同じでした。鉄石は天誅組参加を前に園子の身を岡山の親族の元へ託しましたが、後難を恐れた親族は園子を屋敷に上げなかったといいます。
園子はやむなく鉄石の弟子前川清卿を頼るべく播州赤穂に向かいますが、あいにく清卿は同じく鉄石の弟子村山半牧と連れ立って四国へ旅立ったあとでした。
進退窮まった園子は自殺も考えたようですが、思い直して再び岡山を訪れ、見かねた渡辺左太蔵(鉄石の長姉波満子の夫)が園子を匿う事にしました。
やがて四国の旅から戻った村山半牧は、師藤本鉄石の死と、その妻園子の不遇を知る事になります。半牧は岡山に渡辺家を訪れると、園子を伴って赤穂へと向かいました。そして園子を前川清卿に託すと、自らは故郷越後三条へと帰って行ったのです。
半牧は故郷に戻ってからは絵を描き弟子を育てる事に専念していたようですが、戊辰戦争の際、領主である村上藩から倒幕派に加担した嫌疑をかけられた事に憤慨して自ら命を絶ちました。
園子は幕末まで清卿の保護を受けて暮らし、維新後は故郷岡山へ帰っったと伝わります。
幕末期に志半ばで命を落とした人物が、もし明治まで生き延びていたら・・・と良く言われますが、もし藤本鉄石が天誅組に加わらず、おとなしく故郷に帰って文雅の道に専念していたなら、おそらく友人の富岡鉄斎や山中静逸のように明治日本画壇の重鎮としてその名を残したに違いありません。
が、最期は武士として死ぬ道を選んだ事こそ、藤本鉄石の真骨頂と評価するべきなのでしょう。(終)